第16話 里奈と俊
ある朝葉音が目を覚ますと、すでに日が高く昇っていた。
のろのろと起き上がり、寝室を出る。しんとした家の様子に、ドキリとした。
『ま、当然よね……』
少し前までは、このぐらいの時間になればお茶の香りと光一の笑顔があった。しかし今は、それがない。
約20年間毎日この家に通っていた光一は、もうここで働くことはなくなったのだ。
”一生働く”約束だった。
来なくなったということはつまり、そういうこと。
『朝ご飯どうしようかしら……自分で出しても、ど~も味気ないのよねぇ……』
しばらく考えて、食べなくてもいいか、という結論に達する。
「ちゃんと一日三食食べなくちゃだめだよ」
光一ならそう言ってたしなめたかも知れない。けれど。
『作るの面倒だし、自分で出しても味気ないだけだもの。食べないわよ』
大きくため息をつく。光一がここに通うようになるまで、この家はこんなに広くて静かだったのだろうか。
そんな昔のことなんて、もうほとんど思い出せなかった。
『やんなっちゃうわ……』
陰鬱な気分を晴らそうと、家から出る。
外はいい天気で、風もほとんどなかった。日差しが暖かくて本当に気持ちがいい。
「ん~……」
腕を上げ、大きく伸びをする。背中から、いつもはしまっている翼が飛び出した。
片方は黒く大きく、もう片方は白く小さい。
黒い方の羽の重みで、葉音は少しよろめいた。その時。
「どいてくださ~~い!!」
前方から、すごい勢いで自転車が走ってきた。
「え?」
自転車に乗っているのは、6、7歳くらいの男の子。必死の形相でブレーキを握りしめているが、自転車は止まらない。
「あ」
そんな様子をのんきに見ている場合ではない、と気づいた時にはもう遅く。
ガシャーンという派手な音を立てて、衝突してしまった。
「……っ……」
背中がズキズキと痛む。
起き上がり、顔をしかめて振り返ると、黒い方の羽が半分ほどのところでボキリと折れ、地面に転がっていた。
「大丈夫ですか……」
後から走ってきた女の子が、葉音に駆け寄る。
「羽! きゃぁ! 折れてる!」
葉音の様子に気がつき、彼女は悲鳴を上げる。
地面に倒れていた男の子も起き上がり、顔を青くした。
「ご、ごめんなさい!!」
それには答えず、指をパチンと鳴らす。それで痛みは収まった。
しかし。
『治らない……?』
地面に転がっていた黒い羽は、消えてなくなった。かといって、元の場所に繋がったかと言えば、そうではなく。
今まで大きかった背中の黒い羽は、白い方と同じくらい小さくなってしまった。
もう一度指を鳴らしてみても、羽は元には戻らない。
「あ、あの、ごめんなさい……」
顔を上げると、さっきの二人が泣きそうな顔をしていた。
葉音はゆっくりと立ち上がり、二人を睨み付ける。
「どう責任とるつもり?」
冷たい声で言えば、二人は肩をびくりと震わせた。
「どうやって償ってもらおうかしら。あんた達には羽はないから、代わりに足をもらうとか?」
かつて光一に『すっごく綺麗ですっごく怖い』と言われた笑顔を浮かべてそう言うと、二人はますますおびえて体を縮こまらせた。
その様子は、どこか出会った頃の光一を思わせて。
「あなたたち、明日から毎日ここに来て働きなさい」
気がつくと、そう命令していた。
『……でも、なかなかいい案かもね』
少なくとも今の、もの寂しい感じは和らぐはずだ。
「あなた達に拒否権は「ごめんなさい、無理です!」
男の子に、言葉を遮られた。しかも無理、と。
「学校があるから……」
「……人の羽折っておいて、何もしないで帰るつもり?」
本当に足を奪ってやろうか、と思った。が。
「だから、学校のない日だけじゃだめでしょうか! 日曜日とか!」
女の子が慌てて言ったその提案に、少し考えた。
見るからに役に立たなさそうな二人だ。毎日来ても、うるさいだけだろう。
もの寂しさを紛らわすためなら、週に一日でもかまわないかもしれない。
「……まあ、それでいいわ。10時までには必ず来なさい」
「はい!!」
返事をしたかと思うと、男の子は自転車に乗り、あっと言う間に走って言ってしまった。そのあとを、女の子が慌てて追いかける。
「約束を破ったらひどい目にあうと思いなさいよ!」
後ろから叫び、ふぅと息をつく。そして家に戻った。
日曜日はきっと騒がしくなる。それまで、静かな時間を満喫しておくのもいいだろう。
本を開き、紅茶を出そうとして……やめて。台所に行って、お湯を沸かすことにした。
その方が、力を使うよりもおいしい紅茶が飲めるような気がしたのだ。
自力でお茶を入れてテーブルまで運び、今度こそ本を開く。
なんだかとても、いい気分だった。
*
この時の葉音には知るよしもないが、日曜日にやってくるのは先ほどの二人だけではない。
「森の悪魔さんに会いに行くって言ったら、里奈と俊だけずるいって言われちゃったんです……」
二人はそう言って、友達をたくさん連れてくる。
葉音が想像しているよりずっと、賑やかな日曜日になるのである。
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