火葬

火葬

 ある日突然、いなくなっちゃったの。男の人と出かけたっきり、私の知る限り二度と帰ってこなかった。

「どこにいっちゃったんだろうね」って言ったら、お母さんは投げやりに、「さあ。でも案外、そんな遠くないところにいるのかもね」と答えたわ。生きているのか死んでしまったのか、誰にもわからなかった。それなのにその返事は、まだ私が幼い頃に、おばあちゃんが死んだ時と同じだったの

――もし本当にそうなら、お葬式をしなきゃおかしいのにねえ。


 *


 買い物から帰ると、お隣の笹木さんが地面に座り込んでいた。じっと、アリの巣を見つめている。

「こんにちは」

 声をかけてみても返事がない。気付かなかったのかと思いもう一度繰り返したが、笹木さんはこちらを見もしなかった。「202号室の笹木さん、最近ちょっとおかしいの」上の階の野田さんの言葉を思い出す。

 今は関わり合わない方が良さそうだ。そう判断して、通り過ぎようとした。その時。

「りほちゃん、りほちゃん」

「はい?」

 名前を呼ばれ、思わず返事をした。けれど笹木さんはこちらを見ていない。相変わらず、アリの巣を食い入るように見つめている。そこに私の入り込む隙はなさそうだった。どうやら、笹木さんが呼んだ「りほちゃん」は、私のことではなかったらしい。

 その夜、インターホンに応えてドアを開けると、笹木さんがにっこり笑って立っていた。

「肉じゃがをね、作りすぎてしまって」

「いつもありがとうございます」

 四角いタッパーに入った料理を受け取る。一人暮らしのおばあさんにとって、隣の部屋に住む若い女の子は、かわいくて仕方がないらしい。笹木さんは、よくこうして料理をお裾分けしてくれるのだ。

「お鍋が大きすぎるのよね。でも、昔から使っていたものを変える気には、とてもなれないの」

「思い出の詰まっているものは、なかなか捨てられませんよね」

「河上さんもそう? 良かったわ。私なんでもため込んじゃって。この間物置を整理してたら、壊れた時計が出てきてね……」

 その後三十分程、私は笹木さんの思い出話と、親しみのこもった笑顔を楽しんだ。亡くなった旦那さんの話、東京にいる息子さんの話。それに、笹木さんが若かった頃の話。こんなに元気なこの人が、さっきは地面に座り込んで異様な雰囲気を出していたなんて、信じられない気がした。「りほちゃん」の話も、一度も出てこなかった。


 *


 次の日は朝から蒸し暑かった。べたべたした空気が、肌に髪を張り付けてきて気持ちが悪い。仕事を終えて帰る頃にもまだ暑く、うんざりした気分でアパートにたどり着くと、笹木さんがジョウロを使って、道に水をまいていた。

「あら河上さん。お帰りなさい」

 ジョウロも笹木さんも、笹木さんが履いているサンダルも、全てが小さくころっとして、かわいらしく見えた。すっ、と首の後ろを爽やかな風が撫でていく。笹木さんの打ち水のおかげかもしれない。

「こんにちは。今日も暑いですね」

「ほんとよね。そろそろ秋らしくなってくれてもいいのに。年寄りには辛いわ」

「早く涼しくなるといいですよね」

 軽く挨拶をして、アパートの階段を上り始める。昨日まで一階の踊り場の天井に汚らしくかかっていた蜘蛛の巣が、無くなっていた。笹木さんが掃除してくれたのだろうと思い、なんとなく振り返る。笹木さんはジョウロを傍らに置き、昨日と同じところに座り込んでいた。まただ、とどきりする。そっと立ち去ろうとして、またあの名前を呼ばれた。

「りほちゃん、りほちゃん」

なんとなく、その声に惹かれてしまった。笹木さんのもとまで戻り、隣にしゃがむ。

 私たちはしばらく黙っていた。笹木さんは私に気付いていないかのようだった。それでも私はそのまま動かなかった。

「小さいわよねえ」

普段の笹木さんの話し方ではなかった。もっとずっと歳を取った人の話し方だと思った。もうすぐ消えてしまいそうな人の話し方。

「ちょっと踏んだだけで、死んでしまうでしょう? 弱いのよねえ……儚いの」

それはむしろ今の笹木さんだと思ったが、言わなかった。また静かな沈黙が訪れる。私はただ笹木さんの顔を見つめて、彼女が再び口を開くのを待っていた。こうして眺めてみると、笹木さんのしわの寄ったまぶたは、とても柔らかそうだった。

 ふう、と小さく息を吐き、笹木さんは立ち上がった。

「全て小さな生き物はね、りほちゃんの首に似てるのよ」

それだけ言い残し、笹木さんはゆっくりとアパートに入って行った。階段を上っていく笹木さんの姿は、不思議と普段より危なっかしさがなかった。


 *


 それから一ヶ月もたつ頃には、私は笹木さんが時折見せる不思議な様子にも慣れ、大分りほちゃんについて詳しくなっていた。りほちゃんは笹木さんの幼なじみで、とても可愛い子だったようだ。手足はスラリと長く、肌は健康的な小麦色。ふわふわの髪と、くりくりした瞳を持っていた。周りの子より成長が早く、近所の女の子の中で誰よりも早く胸が膨らみ始めていた。性格は少し小生意気だが、その性質の出し方をよく心得ていた。どういう態度を取ったら異性を虜に出来るかを、本能でよく知っているような。いわゆる、「小悪魔系」の女の子だったのだ。

「首はね、とても細かったの」

 その日笹木さんは、駐車場のすぐ横で突っ立って、カマキリを見下ろしていた。カマキリは両手を挙げて精一杯笹木さんに威嚇している。それが逆に、彼が弱く無力であることを強調していた。

「細くて、ちょっと長くてね。絞めやすそうな首だったの」

 ちょん、と笹木さんが足の先でカマキリをつつく。カマキリはいっそう高く鎌を振りあげた。ごめんごめん、と笹木さんはくすくす笑った。それから急に、真面目な口調になる。

「男の子からもらった首飾りなんてつけてるとね、許せなかった。だってまるで切り取り線みたいだったもの。この首を鋏で切って頂戴、って、言ってるみたいだった。だから首飾りがついてると、そんなものはいらないのよ、って叫んで、引きちぎりたい衝動にかられたわ」

りほちゃんの首の話だったのだと、私はその後車に乗ってから気が付いたのだった。


 *


 りほちゃんが付き合う男性は皆、魅力的な人だったそうだ。だから笹木さんは、いつも彼女の恋人を好きになってしまったのだという。

「りほちゃんの恋人のことを考えるとね、いつも胸が苦しくなったの。恋なんてろくなものじゃ無かったわ。何かどす黒いものが渦巻く感じがしたものよ」

 ころころと、昔を懐かしんで笹木さんは笑う。そして、手の上のアシナガグモを優しい目で見つめた。本当なら笹木さんはクモが嫌いだ。だから、今笹木さんが手のひらで慈しんでいるのは、きっとクモではなくて、りほちゃんの首なのだろう。

おそらく笹木さんが想いを寄せていたのは、男性たちの方ではなかった。一度、普通の状態の笹木さんに、さりげなくりほちゃんの話を振ってみたことがある。その時笹木さんは、少し不自然に話を逸らした。それは本人が意識してやったのではなく、ただ無意識にしてしまったことのように思われた。きっとりほちゃんの名は、笹木さんの心の奥底に重石をつけて沈められ、本当ならもう上がってきてはいけない名なのだろう。りほちゃんは、それだけ特別な存在だったのだ。

「笹木さん。私の小さい頃の呼び名も、りほちゃんだったんです」

 アシナガグモを土の上に返した笹木さんに、そう言ってみた。笹木さんの皮膚の柔らかい右手が、私の首へと伸びる。そして、頸動脈をなぞるように撫でた。冷たい体温が心地好く、私は自然と目を細める。やがて手はゆっくりと離れていき、だらりと肩の下に垂れ下がった。初めから解っていたことではあるが、私の首ではお気に召さなかったようだ。笹木さんの目が、地面を歩くアシナガグモに移る。その唇は、ほんのりと笑みを描いている。タンポポの綿毛そっくりの、ほんわりとした笑みを。


 *


 その日家を出ると、笹木さんが落ち葉を集めていた。私は彼女が掃き集めた落ち葉の山の中に、トンボの死骸が混ざっているのに気が付いた。風が吹けばカサコソと飛ばされていきそうな、乾いた死骸。それは昨日の夜、笹木さん自身が拾ってきて地面に置き、静かに祈りを捧げていたものだと、私は知っていた。

「おはようございます」

「おはよう。今日もお仕事頑張ってね。今日はお隣の棟の子たちと、この落ち葉でお芋を焼くの。一つ取っておいて、夜に持って行くわね」

「ありがとうございます! 焼き芋大好きなんです」

「楽しみにしててね。じゃ、行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 駐車場に向かって歩き出す。笹木さんが手を振ってくれたので、私も振り返した。

 焚き火にはしゃぐ子供たちと、それを眺めるお母さんたち。そして笹木さん。その輪の中に入れないのが残念だ。車に乗り込み、シートベルトを締める。ご近所さんたちのにぎやかな談笑の中、焚き火はゆっくりとサツマイモを甘くしていくのだろう。なんてなごやかなお葬式。そう、参列者は誰もそのことに気がついていないが、これはお葬式だ。笹木さんは、今になってやっとりほちゃんのお葬式に出られるのだ。

 そっと、静かに目を閉じる。そして、誰にも知られずに火葬に付され、天に昇っていく、りほちゃんの首のことを思った。

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