A.G.1035 10.17
――幸福な1日に感謝を
E様に時間が出来たので共に森に行った所、Hは一心不乱に石版に向かっていました。ついこの前までぼんやりと虚ろな目で描きかけ――彫りかけの絵を眺めていたのが嘘のようです。いつも同じ流れで絵を創っているのは知っているのに、それでもその度驚いてしまいます。
石版に向かうHはまるで戦車に乗って戦地を駆ける戦士です。ただ前だけを見据え、倒すべき何かに向かい真っ直ぐに走り抜けてゆく。馬が暴走しないか、相手に返り討ちにされはしないか。そのような不安を、この時のHは微塵も感じていません。口元に笑みさえ浮かべ、武器のノミを携えてひたすらに進軍してゆくのです。
E様はいつもと同じく、そんな彼の様子を惚れ惚れと見つめていらっしゃいました。
「奴が死んだらすぐに、私は美術館を建てるぞ」
もはや口癖のようになっている言葉です。それに加え、「早く公開したいから、早く死んで欲しいぐらいだ」とまでおっしゃる始末。「それでは新作が見れなくなってしまうのだがな」と笑っていらっしゃいましたが。
Hの体越しに見ただけですが、今回の絵は、審判を下さんとする男と跪いて許しを請う男の絵のようです。男はどちらも同じ顔をしていました。
Hならば……この絵を、「許しを請う神と断罪する神」とでも説明するのではないでしょうか。跪く男の足下には無数の動物の骨が転がっていました。それらは神が救えなかった命達。絵の中の神は自分の無力さを嘆き、己自身に詫びているのです。
最も、こんな想像を話せばHは笑うでしょう。「そんなことを考えるなんて、君は異端者かい。それにこれが本当にそんな様を表しているなら、僕もまた異端者だ」と。私に言わせればそんなことはありません。神とはあらゆる可能性を秘めた存在。神の姿を固定することは罪なのです。ですから、様々な神の姿を想定、肯定せねばなりません。「嘆く神」を否定することは、「嘆かぬ神」に神を固定すること。それこそ悪しき偶像崇拝です。
ですから私は何度でもHに伝えたい。「あなたも私も異端者ではありません」と。Hは嘆く神だけでなく自信に溢れた神を、苦悩する神だけでなく全能なる神を、平等に壮麗に描くからです。
Hが作品を創るのは、自らが愛すことの出来る神の姿を探すためなのでしょう。私はどのような神でも愛することが出来ます。だから今の職に就きました。ですがHはそうではないから、神学校を去ってしまった。しかし彼は神を愛したいと願っているのです。それ故に石版に向かう。迷いながら輪郭を描き、一度は失望し、虚ろな目をして佇む。しかしやがてそこに一筋の光を見出すと、勇気と自信を持って突き進んでゆく。しかし完成するものはやはり彼の求めるものではない――こうした苦悩の繰り返しが作品を産み出し続けるのであれば、彼が答えを見つけることは人類にとって大きな損失かもしれません。
E様はこのような小難しいことは抜きでHの絵を愛しておられます。私は始め、E様は人々の運命を定めるお立場故、救いを求めてHの作品を求めるのだと思っていましたが、そうではありませんでした。彼女はご自分のお立場もお悩みも忘れ、ただ純粋にHの絵の前に立ち、静かに感動なさいます。私のように理屈を捏ねることはありません。Hの過去や思想に思いを馳せることすらなく、ただ目の前の作品に胸を打たれる。ですから私よりずっと、Hの芸術そのものの理解者なのです。
絵はもうすぐ出来上がるでしょう。彼に作品を破壊したいという衝動が訪れる前に絵を保護出来るよう、いつも通り注意を払わねばなりませんね。
明日はM国の国王がお見えになりますから、E様は城を離れられぬでしょう。私一人で森に行きます。もし完成の瞬間を私が目にしたら、E様はさぞ悔しがられるでしょう。それを思うと可笑しいです。
絵が完成すれば少しは話が出来るでしょうから、昔のようにHと議論を交わしたいものです。最も、余程彼の機嫌が良くない限り「僕らはもう学生ではないんだよ」と断られてしまうでしょうが。
そろそろ眠ることと致しましょう。
――明日も皆に神の微笑みが向けられますことを。
お題:司祭、女帝、隠者、審判
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