―― 惹かれる ――

『本当は僕が』


 深い眠りを守る海の上を、船は滑らかに進んでいく。和やかな談笑の中響いた不穏な音に人々は一瞬だけ振り返ったが、甲板では男の子が一人海を見ているだけ。変わった様子は見られなかったので、大人達はすぐにお喋りに戻った。

 しばらくして港が見えて来た頃、先ほどの少年が人々の輪に入って口を開いた。

「あそこから女の子が落ちちゃった……」


 柵から身を乗り出して海を覗いて、あっと思った時にはレモン色のスカートと白い手足が宙に舞ってたの。あの子ね、苦しそうに暴れたりはしなかったよ。ぼちゃん、って落ちてすぐ、人魚姫みたいに白い泡になって消えたもの。今頃はきっと真珠になって、貝の中で眠ってるんだ。そうだよね?

 あのね、海が呼ぶんだよ。こっちにおいで、って、身体の奥の方を引っ張るんだ。そうされるとね、頭の奥がしびれちゃう。息が続く限り大きな声で叫んだ後みたいに、ジーン、ってするの。それでも海を見てるとね、どんどん強く捕まれて、身体の中がキュゥッとするんだ。それで――応えたくなっちゃう。きっとあの子はそれで落ちちゃったんだ。僕は怖くて目を閉じたけど、あの子は閉じれなかったんだ。


 僕が突き落とした? どうしてそんなこと言うの。そんなわけないよ。だって。

――本当は僕が落ちたかったんだよ。



 ***



『人差し指は鋭角に恋をする』


 私の人差し指は尖った角なら何でもいい「ビッチ」だ。パンの角でも紙の角でも針先でもペン先でもいい。とにかく尖りに目が無くて、腹の真ん中を擦り寄せる。おかげで本は全てのページがよれているし、指にはいつもインクがついているし、時に切ってしまうこともあるから、傷が絶えない。

 角と愛し合いたいという人差し指の欲求には、逆らえない。尖りに指が惹かれているのに無視していると、指の腹がむずむずしてきて、尖りの先もなんだか痒くなってきて(そう、私の一部ではなく「物」なのに、何故かそこが痒いと思ってしまうのだ!)我慢出来なくなってくる。特に我慢しなければならない事情が無い限り、私は指の恋心に負けて、好きにさせてしまうのだった。

 私は学校まで毎日電車で通学している。学校の最寄り駅が、私は少し苦手だった。壁がタイルで飾られているのだ。私の人差し指は、その全てと愛し合いたいと訴える。その要求に応えていては授業に間に合わないし、周りの人に怪しまれてしまう。だから私は毎朝なるべく壁を見ないようにしながら駅を出る。

 ある日具合が悪くなった私は、学校を早退した。中途半端な時間だったので、駅は誰もいなかった。そこで私は時間の許す限り人差し指の好きにさせてやった。途中で体調がますます悪くなったので全ての角を愛でることは許されなかったが、それでも指はいつもよりずっと満足そうにしていた。


 夏休み、パパの知り合いのお陰で、船で南の島に行けることになった。初めての船が、なんと豪華客船。私はとても興奮して、お喋りに夢中のママと挨拶に忙しいパパを放ってずっと船の中を歩き回っていた。どの部屋もきらびやかで素敵だったけど、結局私が一番夢中になったのは海だった。透き通ったエメラルドと、気持ちのいい潮風。甲板で海を見ているのは私の他に、男の子が一人だけだった。大人達は景色を楽しむことよりも、知り合いを増やすことの方が大切らしい。


 夜になって、海の様子はお昼と全く変わった。不安になるのに目が離せない、不思議な藍色。その奥に、見つけてはいけない物を見つけてしまった。暗くて、底の方なんて見えるはずがないのに、それなのに見てしまった。

 海の底に、鋭く突き出た岩。絵本の茨姫で見た、糸車の針みたい。あっと思ったときには指が海に吸い寄せられて、身体もそれに引きずられた。抗うことなんて出来なかった。抗おうと思う時間も無かった。人差し指の想いは今までになく強かった。多分、初めての本気の恋だった。ふわり、体が宙を舞った。

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