切なる呪い(ねがい)

 真っ暗な森の獣道を、ランタンの光を頼りに進む。フクロウの低い声や風の音が不気味だが、夜の森を歩くのは初めてではない。何度も通ううちに、いちいち驚くことは無くなっていた。

 二十分ほど歩くと急に視界が開け、丸い湖が現れる。木々に遮られることなく月明かりが届くので、ぼんやりと青く湖が浮かび上がって見える。水面に満月が小さく映り、ゆらゆらと揺れていた。満月は空の鏡。月を映す水面は水鏡。水鏡に映る空の鏡――合わせ鏡。

 この光景には何度来ても目を奪われ、ため息をついてしまう。いつまででも眺めていたくなる気持ちを頭を振って追い払い、目を逸らした。あまり長く眺めていると、湖に呼ばれてしまう。身を投げ水底に沈んで溶けてしまいたい、この静けさと一つになりたい、という衝動に、攫われそうになるのだ。

 ランタンをそっと地面に置き、跪いて、両手を祈りの形に組む。

「お願いです。あいつを、普通の女に戻して下さい」

 合わせ鏡には悪魔が通る。だから満月の晩に湖に近付いてはいけないと、小さな頃から言い聞かされてきた。だからこそ俺は毎月ここで祈る。だってこんな願いを叶えてくれる存在があるとすれば、それは悪魔だろうから。

「お願いします。あいつを神の嫁にしないで下さい」

 あいつは小さい頃からすごくかわいかった。白雪姫みたいに白い肌、眠り姫を思わせるバラ色の頬、ラプンツェルを顔負けの綺麗な髪、シンデレラのように小さな足、そして頑張り屋な性格。奇跡みたいな女の子。当然のように、俺は昔からあいつが好きだった。奇跡みたいな女の子。当然のように、神の嫁に選ばれた。それが五年前。俺とあいつが、十歳だった時のこと。あいつが正式に嫁入りするまで、あと三年。

 村の者は皆大喜びだった。神の嫁が出た村は、神の恵みによって豊かになる。祝いの祭りも開かれた。あいつも嬉しそうにはにかんでいた。暗い顔をしていたのは、俺だけだった。

「お願いします。お願いします」

 あいつは夢で神に会ったのだという。「とても素敵な方だった」、と、喜んでいた。「私は世界一の幸せ者だわ」、と、笑っていた。引きつらないように気をつけながら、俺も「良かったな」、と、笑みを返した。

「お願いです。お願いですから」

 俺はあいつの幸せが壊れることを願う。村人みんなの落胆を、不幸を、必死に願う。もう五年間も願い続けてきた。もう六十回も祈り続けてきた。だからそろそろ、叶えてくれ。

 手をほどき、ランタンを手に立ち上がる。湖を後にする俺を見ているのが、月だけではありませんように。

 どうかどうか悪魔様。あいつを神に奪わせないで。

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