おはよう
画竜点睛、という言葉がある。昔とある国で偉い画家の先生が、壁に立派な竜の絵を描いた。最後に瞳を描き込むと、竜はたちまち本物になって空へと上って行ったそうだ。
この話から、『物事を立派に完成させるための最後の仕上げ』という意味で『画竜点睛』という言葉が使われるようになったらしい。
さて。今俺の作業台の上には、一体の人形が座っている。
身長40センチくらい。体重は、抱いた時に拍子抜けしない程度に、そこそこ。瞳は凪いだ海のようなやわらかい青。唇は淡い赤。髪の毛はふわふわのブロンド。パサパサした印象にならによう素材にこだわったので、つやつやだ。
子供のイメージで作っているので、手足はあまり長くない。だが、指は長い。白くすべすべとしたその指先は、最も上手く作れたと思う部位の一つだ。
こんなにも完璧な出来だというのに、こいつはちっとも動かない。いつまでたっても命を持たぬこいつの『画竜点睛』がなんなのか。これがわからなくては、いつまでたっても完成しない。
俺の親父もじいさんも、腕のいい人形職人だ。今までたくさんのすばらしい人形を生み出してきた。ただの人形ではない。子供が彼女を必要とする限りその子の友であり続ける、命を持った人形だ。
俺も親父やじいさんのような人形職人になりたくて、ずっと修行を詰んできた。そろそろ職人として一人前になってもいい頃だ。だから一人で人形を作った。完成度はかなり高いと思う。それなのに、動かない。
「行き詰まってんなー」
工房でうんうんうなっていると、親父が様子を見に来た。その手には握り飯。俺の為に、母さんが作ってくれたんだろう。
「ここ三日、お前こっから一歩も出てねーだろ。母さん心配してるぞ」
「るせー……」
「どうせ何も進展してねーんだろ。ちっとは息抜きでもしろよ」
握り飯を俺に投げてよこし、親父は工房を出て行った。
「……」
握り飯にかぶりつく。具は梅干し。食べている間も、考え続ける。一体何が足りない? じっと見つめても、人形は俺に何の答えもくれない。
「あー……」
三日も考え通しだ。いい加減疲れた。やっぱ才能ないのかなーなんて考えが、頭をもたげ始める。
このままじゃだめだと、俺は立ち上がった。親父に言われたとおり気分転換でもしよう。少し外の空気を吸いたい。
工房を出て、ぶらぶらと歩く。財布を持っていないので、街に向かってもしょうがない。
だから俺は、川原へと足を向けた。昔友達とよく遊んだ場所だ。石を投げたり、川に飛び込んで泳いだり。好きな子に水をかけたりもした。俺ではないが、好きな子を川に突き落とした馬鹿もいた。当然そいつはその子に嫌われた。
あの頃あんなに馬鹿だったあいつらも、今じゃもう大人だ。ガラス職人に、パン職人に、時計職人。みんな立派にやっている。俺だけがまだ半人前。
空を見上げて、少し驚く。勝手にまだ昼頃だろうと思っていたのだが、実際は昼というより夕方に近かったらしい。空がうっすら赤くなりかけている。それでもまだ赤というには遠い、淡い桃色だ。
そういえばあの頃近所に住んでいたお姉さんから、空が赤くなるのは空が照れて頬を染めるからだと教わった。それなら今の空は、少しはにかんでいるのだろうか。
……頬を、染める……?
パッと向きを変え、俺は走り出した。向かうのはもちろん、工房。
扉を閉める間さえも惜しい。足下に気を払っていられない。ガタガタバタバタといろいろなものを蹴飛ばしながら、作業台に駆け寄る。
作業台の上には、相変わらず澄ました顔をした人形。ふぅっと一息つき、そっと引き出しを開ける。取り出したのは、人形用の頬紅だ。選んだ色は、薄紅色。珊瑚を原料にして作られたものだ。
柔らかいブラシを使って、そっと人形の頬に頬紅をのせていく。彼女の顔が、ぐっと明るく、かわいらしくなった。すっと、ブラシを彼女から離す。
「……」
息を詰めて、待つこと数秒。ぱちくり、と。彼女の目が動いた。
「ん、しょ、っと……」
ゆっくりと、彼女は作業台の上で立ち上がった。そしてかわいらしく小首をかしげ、キョトン、とこちらを見る。
「おはよう?」
あどけない、鈴のような声。
「……おはよう!」
俺はたまらなくなって、彼女をぎゅっと抱きしめた。
おはよう、おはよう! 俺の初めての娘!
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