おやすみ図書館
羊を二千匹も数えたというのに、結局昨日はよく眠れなかった。外では暴走族がぶんぶんやっていて、家の中でも蠅がぶんぶん飛んでいた。
おまけに隣の部屋のスズキさん夫婦が喧嘩をしていたのだ。響いてきた奥さんの金切り声がまだ耳に残っている。
――この斉藤って男、出てきなさいよ!
本当はもっと別のことを言っていたんだろうが、そう聞こえてしまったのだから仕方がない。奥さんの声はそのまま耳の奥に張り付いている。
そんなわけで、私は必要最低限のものだけを鞄につめて、図書館に向かっているのである。寝不足を解消するには図書館が一番だ。
急いで駅に向かうサラリーマンや学生を横目に、ゆったりと歩く。というか、ゆったりとしか歩けない。寝不足のせいで、頭がぼーっとしているのだ。
図書館に着くと、真っ先に奥の階段に向かう。そして地下二階まで降りる。
一階、地下一階には本を借りに来た人がぱらぱらといて、足音やページをめくる音がする。けれど、地下二階はいつもしんとしている。
地下二階の本棚に並んでいるのは、外国語で書かれた哲学書だとか、どこにあるかもわからないような国の辞書だとか、誰も読む気がしない程分厚くて、しかもわけのわからないことが書いてある小説といった、借りる人のほとんどいない本達なのだ。どの本も、古くてどっしりとしていて威厳があって、力強い。しかしそれでいて静か。
私はここで眠るのが好きだ。閲覧者用の椅子に腰掛け、机につっぷして眠るのである。
あっという間に眠りに落ちることが出来るし、それは深くて心地良い眠りとなる。目覚めたときに首や腰が痛む、ということもない。
適当な席に荷物を置いたら、奥の事務室を訪ねる。毛布を借りるのである。図書館は階ごとに空調を管理することが出来ないため、寒がりな閲覧者用に毛布を用意してくれているのだ。
「こんにちは」
地下二階の事務員さんは、小さくて柔らかな雰囲気のおじいさん。黙ってじっとしていたら、周りの空気に溶けて、本達と一つになってしまうんじゃないか、と思わせるような人だけれど、それでいて確かな存在感がある。不思議な人だ。
「毛布ですね、どうぞ」
もう何度も来ているので、彼は私の姿を見るとすぐに毛布を出してくれる。初めはそれが少し気まずかった。言うまでもなく、図書館は眠るための場所ではない。しかし事務員さんはある時私にこう言ってくれた。
「外はうるさいからね。いつでもここに来てゆっくりして下さい。ここなら本達が護ってくれます」
本達が護ってくれる。私の心情を、ぴったりと表してくれた言葉だ。それ以来、私は後ろめたさを感じることなくここに来られるようになった。
毛布をもらったら、先ほどの席に戻る。椅子に腰掛け、机につっぷして目を閉じる。
そして静かに、耳を澄ませる。すると本達の静かな歌が聞こえる。落ち着いた低音。賛美歌のように厳か。けれど威圧感はない。眠りを邪魔しないどころか、むしろ眠りに導いてくれる歌だ。
その歌を聴きながら、私はこの図書館に眠る、私のある一日のことを思う。何百冊あるか知れぬ本の中に、一冊だけ、私のノートを紛れ込ませてあるのだ。昔誕生日に友達から貰った、立派な表紙のついたノート。私はそれに、ある何でもない一日を記してある。
――7時12分 起床。目を三回こすってから起き上がり、伸びをする。布団をたたむ。台所に行き、朝食の準備。スクランブルエッグとパン。出来たらお皿に乗せて、テーブルに運ぶ。椅子に座る。食べる。いつもと変わらない味。
8時 家を出る。いつもと同じ道を通る。中学生の男の子達がふざけているのが不愉快。ほんっと~に、不愉快! うるさい上に、いきなり走り出したりして危ない。8時17分の電車。区間快速。
9時15分 学校到着。携帯で一限の教室番号を確認。1206教室。階段で教室に向かう。暑くなってきたので、コートを脱ぐ。
大体こんな具合で、この後授業を受け、家に帰ってきて寝るまでの一日を記してある。正直これを書くのは結構大変だった。何時に何をしたか出来るだけ細かく携帯にメモしておいて、家に帰ってから書いたのである。
このノートはもちろん誰にも読まれることなく、本の間におとなしく収まっている。古くてどっしりしていて落ち着いた、誰にも読まれることない本達に、自分のある一日が護られている。その安心感が、私を心地良い眠りに導くのである。
羊が一匹羊が二匹。家で寝るときには必ず必要なこのおまじないも、ここでは必要ない。まぶたを下ろすと自然に降りてくる、何か暖かで、とろりとした重みのあるもの。それが体全体に染み渡った時、私は既に眠りに落ちている。
――おやすみなさい。
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