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アオイがはじめて小説を書いたのは、中学生のときだった。ある日、理科の授業中にふとミステリーで使えそうなトリックを思いつきノートの端に書き留めたのだ。
ばかばかしいトリックだった。でも、ミステリーのトリックなんてものはだいたいそうだし、問題はその見せ方なのだということもアオイには分かっていた。
アオイは想像した。このトリックを実行に移したのはどんな犯人だろう。どうしてそんなことをする必要があったんだろう。アオイは自分の小説を歴史上の出来事と同じように扱った。「どうしよう」ではなく「何があったのか」と考えた。父親がそのようにして作品を構想するとインタビューで読んだことがあったからだ。アオイは過去を掘り出す探偵だった。
妄想は次第に小説の構想として肉付けされていった。ばかばかしいトリック、ばかばかしい動機、だけど不思議と哀れを誘う犯人の造形とその物語。賢いんだか間抜けなんだか分からない名探偵。善良なんだか俗悪なんだか分からない犠牲者たち。時代がかった台詞の応酬。「名探偵皆を集めてさてと言い」を地でいく様式美に満ち満ちた構成。
アオイは誕生日プレゼントにパソコンをねだった。理由は説明しなかった。プロの小説家に自分の作品を見せるのが恥ずかしかった。パソコンを入手すると、怒涛の勢いで入力した。計算どおりになった部分もあるし、そうならない部分もあった。思わぬ破綻が見つかった部分もあったし、思いもしない偶然が重なって生まれた見事なシーンもあった。四〇〇字詰め原稿用紙換算でおよそ四〇〇枚。長編小説だった。
小説が完成したとき、まず悩んだのが誰に見せるかということだった。真っ先に浮かんだのはあの人の顔だった。
あの人に自分の作品を見せる――
アオイはためらった。あの人は父の作品にも忌憚のない評価を下す。「最近の先生は力押しというか技巧押しだねえ。悪いとは言わないけど、初期作に横溢していた稚気に欠けるのが少しさびしいね」なんて言われたのはつい最近のことだ。自分の作品など到底見せられない。
アオイは煩悶した。プリントアウトした作品を持って、学校まで行ったこともあった。しかし、見せられなかった。これなら、まだラブレターを渡した方がましだ。そう考えたこともあった。そうこうしているうちに、三年生は本格的な受験シーズンを迎えた。間もなく卒業だ。あの人がまた遠くなる。
遠く――
そのことがかえってアオイの心を軽くした。アオイはあの人の家に原稿が入った封筒を送った。
それから、アオイは期待と不安が入り混じった気持ちであの人と接した。しかし、二日、三日と経ってもあの人はアオイの作品を受け取ったというそぶりは見せなかった。
これじゃ生殺しだ。
ある日、そう思いながら家に帰ると、リビングのテーブルに自分宛に届いた真っ白な封筒が置いてあった。差出人はあの人だ。触れてみると、コットン特有のやわらかさがあり、思わず頬ずりしたくなった。封筒にもこんな種類があるなんて知らなかった。自分が送った封筒の安っぽい手触りが思い出されて少し恥ずかしい。
部屋に持ち帰って慎重に封を解くと、梅の花をあしらった淡い色合いの便箋が入っていた。あの人からの手紙だ。
そこにはアオイの作品に対する感想が書かれていた。短い文章だけれど、読むのには時間がかかった。途中で何度も便箋を置き、深呼吸をしたり、ハーブティーを飲んで神経を落ち着かせなければならなかった。
手紙にはまずアオイ自身も気づかなかった疵の指摘があり、またアオイが誰にも気づいてもらえないと思っていたテーマへの言及があった。その言葉すべてを、アオイはどんな小説よりも大事に読み込んだ。
――わたしも小説を書いてみた。短編小説だ。誰よりもまず君に読んでほしい。
手紙の最後にそう書いてあった。手触りのいい封筒にはごく一般的なコピー用紙の束が同封されていた。あの人の小説だった。
アオイはすぐに読み、圧倒された。
人を食ったような話だった。カフカのような不条理があり、キャロルのような遊び心とチェスタトンのような逆説があった。
当たり前だったことがとんでもなくグロテスクな妄念に様変わりしていく。常軌を逸した話が、いつの間にかこの世界の真理を語っていることが分かってくる。機知と薀蓄が作品に奥行きを与えており、また、それが思わぬ形でストーリーに繋がってくる。
そして、呆気にとられるようなラスト。結末の意外性はオー・ヘンリを、構成の緊密さはポーを思わせた。いわく言いがたい不思議な読後感は「奇妙な味」の系譜にあると言えるかもしれない。
まるであの人そのものだ。
読む満足があり、発見がある。
――これが小説なんだ。
アオイの頭をガツンと殴りつける作品だった。
それからあの人とは作品をやりとりするようになった。学校から帰ってきて、例の白い封筒が届いていないか確認するのが何よりの楽しみになった。アオイもまた新しい長編小説を書き、その一部をあの人に送った。封筒は、文房具屋で見つけたお気に入りの物を使うようになった。
あの人が高校に入ってからも会う機会はあったが、面と向かって創作の話をすることはめったになかった。いまどき、わざわざ郵便で作品をやりとりするのはきっと贅沢な遊びのつもりだったのだろう。ミヅキにも知らせず二人っきりで作品を交換し合う関係には、秘密の喜びがあった。
あの人は高校で文芸部に入った。あの人の作品がより広く読まれるのはうれしい反面、どこかさびしく思えた。それでも、部誌の原稿が完成すれば真っ先に送ってくれるのが、アオイにはうれしかった。
――小説家の才能はしばしば長編と短編のそれに分類されるね。両方の資質を兼ね備えた作家は、プロでも稀だ。
ミヅキがその場をはずしたとき、あの人がそんなことを話しかけてきたことがあった。
アオイは自分が長編の書き手だと自覚している。削り取り、磨き上げるよりも肉を盛り、華々しく飾り立てるのを好んだ。あの人に感化されて短編を書こうとしたことがあったがうまくいかなかった。その逆に、あの人は短編の書き手だった。どうしても長編が書けないのだと手紙の中で時々こぼしていた。
――でもね、近々それに近いものは書こうと思ってる。
――近いもの?
――また書いたら送る。そのときのお楽しみだ。
やがていつもの封筒が届いた。あの人らしい作品であると同時に、どこか新境地に踏み出したようにも感じた。ただ、プロットにあの人らしからぬ隙や余剰が存在することが気になった。アオイはその感想を書き送った。
次の作品が届いたとき、アオイはあの人の意図を知った。それは、この前の作品と世界を共有し、間接的なつながりを持つ作品だった。
連作短編――
やはり前二作とつながる次の作品が届くと、アオイは確信した。あの人は幾つもの短編をつなげてひとつの大きな作品を完成させようとしていた。アオイは興奮に打ち震えた。あの人がつむぎだす言葉、人物、世界。それがかつてない規模に広がっていく。
部誌の刊行に合わせているのだろう。白い封筒は定期的にアオイの自宅に届いた。物語は収束に向かっているようにも、混沌の度合いを増しているようにも思えた。
――次が最後の一編になる。
年の暮れに届いた原稿には、そのような予告が添えられていた。
そのときをどれほど心待ちにしたことだろう。期待と不安。両方があった。けれど、あの人ならきっとそういう次元を超えた何かを提示してくれるだろう。そう思った。まさか、そのときが訪れないとは思いもしなかった。
――姉さんが高校の屋上から飛び降りた。
ミヅキからそう聞かされたとき、アオイはコートを引っつかんで外に飛び出した。嘘であってほしい。そう思いながら走った。白い息を吐きながら走った。けれど、それも学校の前に着くまでの話だ。喧騒。混乱。あのとき目にしたパトカーのランプがいまでも瞼の裏に焼きついて離れない。
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