アパートにいたもの

まだ看護師になりたてのころ

職場からわりと近いところに格安の賃貸マンションを見つけた

ワンルームだけど建物はしっかりしてるし、内装もけっこうオシャレ

それまで住んでいた部屋はセキュリティとかヤバかったし、天井から雨漏りするようなところだったんでラッキーって思いすぐに契約した

そしたら、もれなく幽霊がついてきちゃって……



風もないのにカーテンがひるがえったり、ハンガーで吊っておいたシャツが床へ投げ出されたり

テーブルにあったガラス製の一輪挿しが音を立ててひっくり返ったこともあった

怖くなかったと言えばウソになる

けど引っ越そうとは思わなかった。

なにせそのころの私ときたら毎日の仕事をこなすのが精一杯で、そんな些事にかまけている心の余裕がなかったのだ

きっと疲れているせいに違いない

カーテンはエアコンの風でひるがえったのだし、花瓶も知らないうちに自分で倒してしまったのだ

そう思い込むことで無理やり自分を納得させていた



でもそんな私の態度に気を悪くしたのか、ある晩とうとう幽霊が実力行使に出てきた

夜中にトイレで用を足していると、突然外がわから戸を引っ掻く音がしたのだ

ガリッ、ガリガリッ

さすがにこれには青ざめた

トイレの戸は合板に色を塗っただけのもの

その薄っぺらい戸ひとつ隔てて、得体の知れないナニかと向き合っている

どうしよう……トイレから出られない

私の恐怖心を煽るように、爪を立てる音はしだいに激しさを増してゆく

ガリゴリガリッ、ゴリゴリバリバリッ

「お願い、もうやめてっ」

たまらず両耳をふさいで叫んだら、音がぴたりと止んだ

そしてドアの向こうから、ナァー、という可愛らしい声

え……もしかして猫?

ナァーオ 

どう聞いても猫の鳴き声だった

でも、どうして部屋のなかに猫が……

恐るおそるドアを開けてみた

なにもいない

首を突き出してリビングをくまなく探してみたけど、猫なんてどこにもいなかった

でも、ふたたびドアを閉めると

ニャーオ

カリッ、カリッ

やっぱり猫いるじゃん……



そんな事があって、ようやくその部屋に住み着いているのが猫の幽霊なのだと知った



「ネコちゃん、ただいまァ」

その日から私は猫の幽霊と暮らしはじめた

名まえは知らないので、ネコちゃんと呼んだ

暗い部屋のおくへ向かって「ネコちゃん、おいで」と呼びかけてやると、毛の塊りみたいなのが足元へまとわりついてくる

すがたは見えないけれど、ジーンズのすそに爪を立てているのがわかる

「お腹すいたでしょう」

キャットフードを皿に盛ってやると、目を離したすきにほんのちょっとだけ減っている

「お給料が入ったら、まぐろの猫缶奮発してあげるからね」

もう、すっかり自分のペットだ

こうして都会の詫びしい一人暮らしを、私は猫の幽霊に癒されながら過ごした……



当時、私が勤めていたのは呼吸器内科だった

なので患者のなかには、不幸にして肺がんを患ったひとも多くいた

肺がんは癌のなかでもとくに骨転移しやすく、そのため痛みに耐えかねて看護師に八つ当たりする患者も少なくない

あるとき私が担当したのも、やはり末期がんで入院した患者さんで、すごくわがままなお婆さんだった

私は検温や清拭のたびに頬を張られたり、髪の毛をつかまれたりした

困って先輩の看護師に相談してみたりもしたけど「そんな事でくじけてたらこの先やってけないよ」とたしなめられるばかり

ひとりトイレで泣きながら、もうこんな仕事やめてしまおうと何度思ったことか……



そんなある日のこと、いつものようにその病室へ清拭(お風呂へ入れないので毎日からだを拭いてあげる)に行くと、いつもムスッと睨みつけてくるお婆さんが、その日にかぎってニコニコ笑いかけてきた

「いつもご苦労さまねェ」

「えっ、いや、はい、あの……」

わけが分からずおどおどしていると「ところで、猫がどこへ行ったか知らない?」とおかしな事を訊いてくる

「猫、ですか?」

「そうよ、この病院で飼っているのでしょう」

「いえ、動物の持ち込みは禁止されてますけど」

「そんなはずないわ。さっきまで私の膝に乗っていたんですもの」

今まで認知症の兆候は見られなかったけど、一応担当の医師に報告しておいたほうがいいかな……



ところが夜になって、その患者さんの容体が急変した

血圧が下がり、意識が混濁して、やがて昏睡状態となった

彼女には息子がひとりいるけど、運悪く海外へ出張中ですぐには来られないという

他に親類もなく、けっきょくその日夜勤だった私が、当直の医師とともに最期を看取る結果となってしまった



ナァーオ

医師が死亡を確認したとき、病室のどこかで猫の鳴き声がした

「えっ?」

驚いてキョロキョロと周囲を見回してみたけど、もちろん猫なんていない

死亡診断書にペンを走らせている医師にも、その声は聞こえていないようだった

でも……

ニャーオ

やっぱり聞こえる

しかもこの甘えたような声には――聞き覚えがある!

「……ネコちゃん、なの?」



それっきりだった

私がネコちゃんの声を聞いたのは、それが最後

翌朝、自分の部屋へ戻りカーテンを引いたままの暗いリビングへ呼びかけてみたけど、もうあの可愛らしい声は返ってこなかった

今思うと、あれは死期の迫っていた患者さんを天国まで導いてくれたんじゃないかと思う

なにせ病苦に耐えかね、心のすさんでいたあのお婆さんが、最後には眠るように穏やかな表情で息を引き取ったのだから

私があの患者さんのことで悩んでいるのを知って、助けてくれたんだ



あれからもう何年もの月日が流れた

私はといえば、相変わらず病院務めをしながら未だにそのマンションに住みつづけている

いつかネコちゃんが帰ってくるような気がして

天国って住み心地良いのかな

また会えたらいいね……

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