夕貴

 ドーナツ盤のレコードに針を落とす瞬間ってキライ。

 みぞに入りそこねた針が不快なスクラッチ音を立てる。背筋がうっすら寒くなる。まるで自分の腕に注射針を突き立てられてるよう。息苦しくてたまんない。だからつい目をとじてしまう。

 スピーカーから音楽が流れ出すまでの一瞬の空白を、わたしは息を詰めてやり過ごす……。

「あんたってさ、なんでいつもレコードかけるとき、そんなおっかねー顔してんの?」

 スマートフォンをいじりながら美羽が上目づかいでわたしを見た。スツールのうえで器用に組んだ足を所在なげに揺すりながら。

「わたし、そんなに怖い顔してた?」

「もうこの世の終わりがくる、みたいヒソーな顔」

「なによソレ……」

 あわてて眉間のあたりの筋肉をもみほぐす。ヤバイな、うちのママみたいな顔になったらどうしよう。澄ましてても眉間にタテじわ女なんて、絶対にイヤ。

 マスターがふたつならべた耐熱グラスに、アイリッシュコーヒーをつくっている。湯気の立つコーヒーへウィスキーを垂らす瞬間、カウンターにいるわたしたちのほうをチラッと盗み見た。美羽もわたしも高校の制服を着たまんま。

 未成年者の飲酒は法律で固く禁じられています。

 そんな文言があたまをかすめたのか、マスターはウィスキーをチョロっと垂らしただけで、あとは罪滅ぼしのようにホイップクリームをどっさり乗せた。

「はい、お待たせ」

 カウンターにコルク製のコースターが二つ敷かれ、そのうえに透明な耐熱グラスが載せれらる。コーヒーとは言うけれど、アイリッシュコーヒーって、れっきとしたカクテルのメニューなのだ。

 美羽がスマートフォンをパタンと置いた。

 どうやら最近つきあいはじめた彼氏の昼休みが終ったらしい。

 なんて思ってるわたしらも、ほんとは授業まだ終わってないんだけどね。どういうわけか二人してサテンでチャ飲んでる。

「どうよ。ショーギョーの彼氏とは、うまくいってんの?」

 美羽があまりにも上機嫌なんでしかたなく水をむけてやった。ニヤけた顔見ればうまくいってんの一目瞭然だけどね。そこはそれ、シャコージレイというやつ。あんのじょう美羽ったら、デレた顔しながら心とはウラハラのセリフならべたてた。

「ビミョー。思ってたよりぜんぜんガキだった。あたしとキスすることしか考えてない。ありゃ完全にヤリもくだね。しょせん男なんてみんなそうさ。そのくせムード出してやってんのに、いざとなったらチキってやんの。まじバカみてえ」

「同期だもんね、あたしらと同期の男子なんてみんなガキじゃん」

「それな」

 クラスの男どもの顔を順番に思い浮かべてみる。

 からだばっかデカくて、ニキビづらで、中身ガキのくせして、ミョーに色気づいちゃって。

 保健体育の授業で教わったけど、男子の思春期ってわたしたちよりも二年ほど遅れてはじまるらしい。つまり同級生でも精神年齢は二学年下ってこと。

 わたしらの年ごろでふたつ下なんていったら、ほとんどべつの世代、鼻タレの弟みたいなもんだ。

 アイリッシュコーヒーを、シナモンスティックでゆっくりとかき回す。はじめてコレを注文したとき、わたしも美羽もスティックの用途を知らず、リスみたいにカリカリかじってマスターに笑われた。

「夕貴は、なんで男つくんねーの?」

 美羽が顔を寄せてくる。けっこうデカイ音でジャズ鳴らしてるから、顔を近づけないと会話できない。

「つくんないんじゃなくて、できないの」

「あんたクラスの男子からけっこう人気あるよ。あたしらもさ、どいつが最初にあんたにコクるのか楽しみにしてんだけど」

 だからガキはいやだって……。

 ふと、雨宮くんの顔が浮かんだ。

 わたしの斜めまえの席にすわる男子。いつも後頭部ばかり眺めているから、浮かんだ顔も斜めうしろからのアングル。

 平日の午後一時半。

 駅裏の雑居ビル地下にあるジャズ喫茶は、がらがらで、世間のあわただしい営みへ背をむけるように安穏とした時間をむさぼってる。最近は昼いちで学校フケて、ここでアイリッシュコーヒー飲むのがわたしらのひそかなブーム。

 店の四すみにあるバカでっかいスピーカーから、落ち着いたスィングのリズムに乗せて、チェット・ベイカーのトランペットが情熱的なフレーズを奏でている。高校生のくせにチェット・ベイカー知ってるなんてすごいっしょ。わたしも美羽も、けっこうジャズとか好き。お金ないからCDは買えないけど、この店のマスターにいろいろと教えてもらったんで、わりと詳しいのよ。

 お酒飲めるようになったら、ぜったい南青山にあるブルーノート東京へ行こうねって、今から美羽と約束してる。

 店のドアにつるしてあるカウベルが揺れた。

 ジャズのレコードしかかけないから、この店に主婦とかはあまり来ない。今の時間に利用してるのは仕事サボってる営業マンか、あとはジャズ好きのお年寄りくらい。でも意外なことに、入ってきたのはうちのガッコの制服着た男子だった。

 ――雨宮くんだ。

 布でぐるぐる巻きにした薙刀みたいなのを大切そうに店のすみへ立てかけて、慣れた感じで窓ぎわにある二人掛けの丸テーブル席へすわった。

 美羽がわたしの足をポンと蹴って目くばせする。あいつ知ってる? わたしはそっとうなずいた。

「うちのクラスの子だよ」

「ふうん。弓道部のやつか」

 ああ、薙刀じゃなくて弓だったんだ。

「あれあれェ?」

 美羽がニヤニヤ笑いを向けてくる。

「夕貴ってさ、もしかしてああいうのがタイプなわけ?」

「違いますけど」

「ホントにィ?」

「ほぼ、ほぼ、タイプじゃありません」

 こういうとき目を逸らしちゃいけないことを経験上よく知ってる。わたしは美羽の鳶色をした瞳をじっと見つめ返した。マスカラで丁寧にカールさせたまつ毛が、せわしく瞬く。

 しばらくして彼女は、ため息をついてシナモンスティックの先をつまんだ。

「なァんだ、つまんねーの」

 そのとき、ふたたびカウベルが鳴った。モスグリーンの制服を着た女子が、やはり布で巻いた弓を持って店内に入ってきた。

「今度はモジョかよ」

 美羽が、やや敵意のこもった声で言った。

 聖モニカ女学院高等部は、うちのガッコの近くにあるミッション系大学の付属高校で、キッチュな格好したいかにも男に飢えてそうな子が多いからモジョなんて陰口たたかれてるけど、たまにすごく可愛い子がいたりする。

 その女の子は雨宮くんの姿をみとめると嬉しそうに手をヒラヒラさせた。そして向かいの席にすわり親しげにおしゃべりをはじめた。

「ふうん、弓道部どうしのカップルってわけね」

 あまり興味なさそうに美羽が言った。わたしは内心の動揺を悟られぬよう、ゆっくりとカウンターのほうへ向きなおった。

 チェット・ベイカーの演奏が終わり、次のレコードに切り替わる。例によって不快なスクラッチ音がわたしの胸にチクチクと刺さる。

「夕貴……なんか涙目じゃね?」

 からかうのではなく本当に心配そうな顔で美羽が言った。リアクションに困ったわたしは、マスターに向かってとがった声を出した。

「ちょっとマスター、このコーヒーお酒入れすぎィ。わたしらまだ高校生なんだからねっ」

 突然の癇癪にマスターが首をすくめる。わたしは八つ当たりのついでに尋ねてみた。

「今かかってるの、なんて曲?」

「これかい? これはマイルス・デイヴィスの、サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カムさ」

 ムフフと意味ありげに笑って、マスターがそっとウインクした。

「いつか私の王子様が現れますって意味だよ――」

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