推して知るべし
休日のハチ公まえはひとでごった返していた。
そしてぼくは、必死になって目のまえを通り過ぎる人数をカウントしている。
95、96、97、98、99……
だいぶ弱まってきたが、相変わらず下腹はギュルギュルと鳴りつづけていた。
こめかみを伝い落ちる汗は、けっして暑さのせいだけではない。
ぼくは子どものころから神経性の下痢に悩まされていた。
正確には過敏性腸症候群というらしく、自律神経の異常によって消化器の働きが乱れるというじつに厄介な病気だ。
おかげで人生の大事な局面を、何度もウンコでしくじってきた。大学入試しかり。採用試験の面接しかり。
病院にも通ったが投薬治療はあまり効果がないらしい。
そこでぼくは精神科医の門を叩くことにした。
臨床心理学の権威でもあるその先生はこう言った。
「きみの病気の根本にあるのは強迫神経症だよ」
「強迫神経症……ですか?」
「そう。つねに無意識の強迫観念によって自分自身を縛りつけているのだ」
「ははァ、なるほど」
たしかにぼくには、子どものころから強迫症の気があった。
たとえば、数をかぞえはじめると途中でヤメることができない。壁に浮いたシミの数。縁石を這いまわるアリの数。一度などは電線にとまるスズメの数をカウントしていて、通勤電車を乗り過ごしたことさえある。
「先生、ぼくはどうすれば良いのでしょう?」
「うむ、きみの場合、毒を以て毒を制する治療法でいくより他あるまい」
「と言いますと……?」
「ウンコがしたくなったら、なんでもいいから数をかぞえなさい」
「数、ですか?」
「そう。数をかぞえているあいだは決してウンコを漏らさない。そのような信念を自分の心に植え付けるのです」
ようするに「ウンコがしたくなったらどうしよう」という恐怖心を、より上位の強迫観念によって封じ込めてしまおうという試みだ。
その日以来ぼくは、会議中にうウンコがしたくなれば資料に書かれた文字の画数をかぞえ、満員電車で便意をもよおせば目のまえにあるバーコード頭の毛の本数をカウントするようになった。数さえかぞえていれば、そのときだけはウンコを漏らす恐怖を忘れていられる。
そうやってぼくは、だんだん自分という人間に自信が持てるようになっていったのだった。
165,166,167,168,169……
目のまえを流れ過ぎる通行人を目で追いながら、そっとポケットへ手を入れた。
指さきに小さな箱が触れる。
婚約指輪だ。
今日、彼女にプロポーズしようと思っている。
一世一代の勝負をかける日だった。
すべてを完璧にこなす必要がある。
時計をにらんだ。
待ち合わせ五分まえ。
しかし便意はもはや危険レベルまで達していた。おそらく昨晩ビールを飲みすぎたせいで消化不良を起こしたに違いない。
なんとかしなければ。
だがトイレへ行くには一度駅構内へ入らねばならず、それでは恋人と行き違ってしまう危険性がある。
もう少しの辛抱だ。彼女がやって来たら「ちょっと失礼」とさりげなくこの場を離れ、すぐにトイレへ駆けこもう。
がんばれ自分――。
ぼくは、ありったけのちからで括約筋を締めあげ、休日であふれ返る人ごみを必死になってカウントしつづけた。
231、232、233、234,235……
「だァれだ?」
不意に背後から目隠しされた。
身も心もとろけてしまいそうな可愛らしい声。
ようやく恋人が来たのだ。
ホッと安堵の息をついた瞬間、ぼくの全身を電撃がつらぬいた。
――まずいっ。
視界を遮断されたことにより、苦労してかけつづけていた暗示が解けてしまったのだ。
ああ、肛門から破裂音が……あとは推して知るべし。
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