第3話

 カフェを出る頃には辺りは暗くなっていて、街灯が灯り、店先にある照明も、あちらこちらに飾られた電飾も活躍し始めている。


「イルミネーションも見るんだったか?」

「うん! この辺のを歩きながらでいいから」


 まだあのパンケーキで腹一杯で、居酒屋に行っても何も入る気がしない。

 昼間よりも大きめの雪が、傘に当たる度にカサリカサリと音がする。街路樹の根元や歩道の隅には、薄ら積もり始めていた。

 この調子だと雪乃の望み通り、この雪は積もって銀世界を作り上げるだろう。そうしたら、雪乃はもっと嬉しそうな顔をしてくれるだろうか。

 雪乃の笑顔を思い浮かべながら、空へと視線を上げ、雪雲に『もっと降れ』と頼んでみた。


 普段よりゆっくり歩きながら、カラフルに煌めくイルミネーションを見て、十九時過ぎ、二人の行きつけの居酒屋に入った。安くて騒がしいところだが、お金があまり無い学生時代からよく通ったのだから、馴染み深い。

 ここで頼む物は決まっている。俺の芋焼酎に、雪乃の梅サワー。トマトとモッツァレラのサラダに、手羽先の唐揚げ。どて煮と、枝豆と、じゃが餅コロッケ。揚げ出し豆腐もアンチョビたっぷりピザも忘れてはいけない。

 ここでは国籍も何もないのだ。統一感もお構い無し。二人が食べたい物を頼んでいくと、こうなってしまう。

 久しぶりに来た居酒屋で、久しぶりのメニュー。そんな些細な日常の幸せが、どれほど大切なものか、俺はつい最近気付いた。

 当たり前は当たり前じゃない。日常はいつ非日常へと変わるか分からない。それは変わってから初めて分かるのだが、そう気付いた時には遅い。

 不意にそんなことが頭を過ぎり、慌てて頭を振った。


「何してるん?」

「いや、酔ったなと」

「二日酔いやったもんねぇ」


 クスクスと笑う雪乃は、実は俺よりも酒に強い。学生の頃に飲み比べで負けてからは、張り合わないことにしている。


「美味しい?」

「まあな。でも、雪乃のご飯の方が美味いな」

「またまた、そんな上手いこと言っても何なんもせんよ!」


 茶化したように返事をした雪乃の眉は下がり、少しだけ淋しそうな顔をした。


「また、食べたいけどな」

「そっか。ありがとう」

「いや、雪乃は料理も掃除も得意だったからな。凄いよ」


 グラスの中でカランと氷が音を立てた。

 クルクルと器用に動き回りながら家事を熟す雪乃を思い浮かべる。明朗快活な雪乃は、家事を効率よく熟す術も持っていた。俺なんて、外に出ていた方がいいのでは、と思わされるほどに。

「いてもいいのか」と聞く俺に「おってくれんといやや」と笑いながら返事をする。その拗ねたような、照れたような顔が俺の心を擽って、どんな作業の最中でも、雪乃の小さな身体を抱き締めては怒られていた。


「そろそろ行こっか」


 俺の焼酎が無くなったのを見計らい、雪乃はコートを手にした。

 半分に分けて食べた料理は、記憶と変わらない味がして、とても懐かしかった。


「そうだな」


 雪乃に合わせてコートを身に纏い、会計を済ませて、居酒屋を出る。

 いよいよ本格的に雪が積もり始めていて、歩道には人の足跡がくっきりと残り、街路樹の枝から、そこに乗り切らなかった雪がとさりと音を立てて落ちた。

 真っ暗になった空を見上げると、いつの間にか小粒だった雪から牡丹雪に変わり、迫ってくるように降ってきている。闇から清涼な存在が生み出されているような不思議な光景に、暫し目を奪われた。


「ね、もう行かん?」


 隣から雪乃の声が聞こえて、慌てて視線を下ろす。腕時計を確認すると、日付が変わるまで一時間も無かった。


「あの公園に行くか」

「うん!」


 何の変哲もない小さな公園は、俺と雪乃の家の中間にあり、学生時代はベンチに座って、長々と話をしたし、初めてキスをした想い出の場所でもある。

 電車に乗って、流れる雪景色を眺める。窓ガラスに映る雪乃も、俺と同じように何とも言えない表情で外を真っ直ぐ見ていた。

 そうして、たどり着いた公園は、クラシックなポールライトがぼんやりと橙色に辺りを照らしているだけで、閑散としていた。寒くて雪が降っている中、日付が変わるほどの時間に公園にいる人間は俺くらいだろう。

 いつも座っていたベンチは雪で真っ白になっていて、流石に座るのは難しそうだ。


「あっちに少し高くなっとるとこ、あったよね? 街の方が見えんかったっけ」

「あぁ、確かあったな。雪景色でも見るか」


 俺の言葉ににっこりと微笑んで、足元が悪くなり始めているにも関わらず、雪乃は軽やかに木々の間をすり抜けて行った。

 その後ろから、俺はサクサクと雪を踏みしめて進み、開けた場所に出ると、眼前には幻想的な光景が広がっていた。

 ところどころに仄かに光る街灯、家々から漏れ出る灯り。その上にふわふわした雪が、後から後から降ってきて、ゆっくりゆっくりと重なっていく。色とりどりの世界を、雪は一晩で真っ白に塗り替えてしまえるのだ。


「綺麗だな」

「そうやね。やっぱり積もったね」

「雪乃の日だからな」

「うん、私の日だから」

「今日は楽しかったか?」

「すごい楽しかった。二日酔いなのに、付き合ってくれて、ありがとね」

「雪乃に会えたから、二日酔いなんて吹き飛んだよ。来てくれて、ありがとう」

「うん、会いに来て良かった。私も嬉しかったよ」

「なあ、雪乃。また会えるか?」

「どうやろう」

「会えるって言えよ」

「……言えん」

「スノードーム、見に来るだろ?」

「あのスノードーム見て、私のこと思い出してね」

「そういうこと言うな」

「忘れないでね」

「どうやったら雪乃のことを忘れられるんだよ。馬鹿なこと言うな」

「覚えてて欲しいけど、忘れて欲しい」

「絶対、忘れない。忘れられない。忘れたくない」

「幸せになって」

「雪乃と幸せになりたい」

「愛しとるよ」

「雪乃、」

「ばいばい」

「待て……!」


 必死に伸ばした俺の両手は、呆気なく空を切った。遅れて、後ろからザッと傘の落ちる音が聞こえる。

 俺の目の前では、無数の光がキラキラと煌めき、降るしきる雪の中を舞い上がるように登ってから、パンッと弾け飛んだ。


「なんだよ……なんでだよ! なんで、雪乃だったんだよ」


 脚の力が抜けて、積もった雪の上に膝をつく。同時についた両手で、力一杯雪を握り締めた。きゅっと音を立てて、手の中で丸く固まったが、すぐに自分の体温で溶けていくのが分かる。


「……抱き締めさせてくれても、いいだろ」


 本当は分かっていた。

 絶対に物に触れようとしなかった雪乃。何も食べず、何も飲まず、半分残ったままだったパンケーキや料理。歩く音もしない。いや、どんな動作の時でも、音は全くしていなかった。俺の息が白く浮かび上がるのに、雪乃の息は一度も白く可視化しなかった。

 きっと雪乃に触れることは出来なかったのだろう。それでも、抱き締めたかった。

 一年前、突然、失った温もりを感じたかった。

 俺とのデートに向かっていた雪乃は、一年前の今日。居眠り運転の車に轢かれ、その短い生涯を終えた。無理やり、終わらされた。

 当たり前だった存在を突然失った俺は、哀しみよりも喪失感が強くて、泣くことさえ出来なかった。

 知らせを受けて病院に駆けつけ、その姿を目にしても、葬儀の最中も、小さな壺に収まったのを見ても。

 全然、これっぽっちも、実感が湧かなかった。俺の世界から、全ての彩りが奪われた。

 あの日から一年、俺はちゃんと生きていたのか。

 雪乃が会いに来てくれたのは、どうしてだろうか。

 幸せになれ、と雪乃は言った。雪乃が居ない世界で、どう幸せになれというのか。


「くそっ」


 掴んだ雪を投げつけると、少し前の辺りでサクッと音がした。

 一年前の今日、デートしてプロポーズするはずだったのに。そう思い返して、ハッと息を飲んだ。そう、デートの予定だったのだ。

 まさに今までしてきたような行程を、一年前の雪乃は希望として話していたじゃないか。今日行ったのは、全部、雪乃があの日、行きたいと言っていた所ばかりだ。

 いつまで経っても立ち直れない情けない俺が、ちゃんと前を向けるように、最期のデートをやり遂げに来てくれたのかもしれない。


「……馬鹿だなぁ」


 本当に、雪乃は馬鹿だ。死んでも尚、心配してくれるなんて、俺はそんなにいい男じゃないのに。

 でも、そんな温かくて優しい雪乃だから、俺はずっと一緒に居たかった。

 それなら、俺は?

 今の俺は、雪乃に胸を張っていられるだろうか。


「全然、駄目だろう」


 雪乃は最後に『愛してる』と言ってくれた。それなら、俺は雪乃が愛してくれた俺でいなければならない。


「あぁ、ちくしょう!」


 それから、俺は胸に雪を掻き抱き、溶けても溶けても集め直して、これまでを思い出し、雪乃がいなくなってから初めて泣いた。

 雪は冷たい筈なのに、雪乃が魔法をかけていってくれたのか、何故か温かく感じて、それがまた堪らず泣けた。



 ***


 よく晴れた朝。

 窓の外には青空が広がり、暖かい陽射しが眠気を誘いそうだ。

 あの日、あんなに降っていた雪は、雪乃が消えてすぐにやみ、寂しくなるほど、あっという間に溶けていった。

 ネクタイを締めて、コツンとスノードームを指で弾く。


「雪乃、おはよう。行ってきます」


『いってらっしゃい』


 微かに聞こえた気がした雪乃の声に、ふっと笑いが漏れる。

 スノードームの奥に立ててある雪乃の写真は、俺が一番好きな笑顔をしている。


 なあ、雪乃。

 お前の雪は、この綺麗なスノードームの中でいつまでも降り続ける。

 それがここにある今、お前は俺といつまでも一緒だ。

 残念ながら、お前のことを忘れることはない。

 前を向いて笑うから、そこだけは許してくれよ。



「雪乃、愛してるよ」





 *終*

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の日 安里紬(小鳥遊絢香) @aya-takanashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ