2人で本気出してみる?

 明日から本気出す。


 気持ちはよく分かる。

 僕自身朝起きて家事をやり大学へ行き、ゼミで小倉姪さんとのエネルギーを著しく消費する掛け合いをしてそのまま父親の店のバイトになだれ込み、深夜にマンションへ戻って、はあ・・・とため息をつく頃には余力はほぼ残っておらず例えば中学・高校の頃に頑張って練習していたギターを改めて引っ張り出して、という気分にはなれない。


 ライブハウスも最近行けてない。


 明日、また明日、と先延ばしにしている内に成人してしまっていた。


 僕は『義務』を優先してきたという自負はある。母さんが死んでから、僕にとって家事は『義務』となった。もちろん父親も手伝ってくれるけど、夜を徹して働く彼をいたわりたかった。


 父親は母さんが死んだ寂しさからなのか、会社の早期退職制度に手を挙げてあっさりと会社を辞めた。そして退職金といくばくかの借り入れを起こしてゲイバーを創業し、周囲を驚かせた。


 多分、都会地への出張が多かった父さんは現地で取引先を接待するためにゲイバーに連れて行き、そういう店々の悲しみに暮れる人間を慰める空気を感じたんだろう。


 父親のカラオケの十八番はエレファントカシマシの『悲しみの果て』。ウチの店でもいつも絶唱してる。


 あれ?

 そういえばあの白象のTシャツって、エレファントカシマシの奴だったな。

 なんだろうね、縁がある時ってとことんこういうもんなのかもしれないね。


 僕のことに話を戻せば、ここ数日は店でのバイトの時も小倉姪さんが一緒だから余計にエネルギーを使ってたような気がする。

 ある意味完全燃焼する毎日?

 そんないいもんではないけれどさ。


 でも、こうして小倉姪さんのお陰で論文の出版っていう、それこそ僕がギターを弾いてバンドをやりたいというあの衝動に似通ったアイテムを授かった。


 実は、なんだかワクワクしてるんだよね。


 もしかしたらこの論文に全力を注ぐことで、何かが起こるかもしれない、って。


 でもほんとなんだ。

 意味が分からないけれども、漠然と寂しくなるんだ。


 死期を宣告されて、ほぼその通りに死んでしまった母さん。

 

 ただ、それが明日なのか明後日なのかは誰にも分からず、結局僕が学校に行ってる間に倒れて、そして死んだ。

 やっぱり、僕にしたら突然だったんだ。


 でも、そうだよね?


 金持ちだろうが貧乏だろうが、若かろうが年寄りだろうが、男だろうが女だろうが、言っちゃえばどんなに深いことを言っている哲人だろうが。


 死ぬ。


 僕は小倉姪さんが書いてくれた論文の序文がとても好きだ。

 とんでもなくネガティブな現実をえぐり出してるのに、どうしてだか読む度に小倉姪さんの顔しか思い浮かばないんだ。

 最初に見た時の大泣きしてる顔。

 人を食ったようなしれっとした顔。

 実はまつげがとても長くて笑うと線のような目になるその笑顔。


 僕は彼女と一緒にいることに限りない幸せを感じてるんだ。


 そしてなぜか未だに小倉姪さんは僕たちのマンションに居候してる。


「月出くん、今日もお店大変だったねー」

「小倉姪さんがいけないんだよ。せっかくおねえさんたちが今日定年になった常連さんをねぎらって盛り上げてたのに、『年金受給まで大変ですね』、って水差してさ」

「だあって、ほんとのことだもん」

「そりゃそうだけど、分かった上でみんなそれぞれ毎日をなんとか生きてるんだからさ」

「じゃあ、月出くんもそうなの?」

「え?」

「ほら、あのギター」


 やっぱり読心されてる。


「やりたいことを棚上げしてない?」

「『義務』を優先してきたからさ」

「でも、ほんとはバンドやりたかったんでしょ?」

「それは確かに本音だけど、でも今僕の中で優先してやりたいのは論文の出版とそれを読んでもらうことだよ」

「ほんとに?」

「ほんとほんと。これだけは絶対嘘じゃない。まあ、それが思ったより上手くいかなかったらまた気持ちが萎えて優先順位が下がっちゃうかもしれないけど」

「じゃあ、明日から本気出す?」

「ぷっ」

「あ、笑った。なんでー」

「いや、さっき僕も同じこと思ってたからさ。『明日から本気出す』なんて現実逃避の最たるものでしょ」

「ううん、そんなことないよ」

「そんなことあるよ」

「そんなことない。だって月出くん。すっごい体疲れてるでしょ?」

「え? ああ、まあ。でも小倉姪さんだって疲れてるでしょ?」

「いやー、月出くん家で合宿した方が論文の準備に効率的だろうからっておばあちゃんが外泊延長を許してくれたからさ。お寺の早朝お勤めなんかが無い分かなりラク。で、明日から本気出すためには戦士の休息が必要なのさ」

「戦士・・・誰が?」

「月出くんが。あと店長もウチのおばあちゃんもお師匠も」

「なら小倉姪さんも」

「えへ。ありがとう。あのね、ウチのお母さんがね」


 お。あまり小倉姪さんの話題に出て来なかったお母さんの登場か。


「お母さんがどうしたの?」

「お母さんがね、わたしが檀家さんの家を回り始めた小学生の時からさ、正座して緊張して体がコチコチになってお寺に帰るとね、いつもこうしてくれるの」


 ソファに座る僕の前に立ち、そのまま抱きしめてくれた。


「こ、小倉姪さん?」

「んでね。こうして頭を撫でてくれて。それから背中をこうしてさするように撫でてくれて」


 小倉姪さんのほのかに香り立つコンデンスミルクのような甘い匂いについ目を閉じてしまう僕。


「ほら、こうして緊張をほぐしてくれるんだ・・・あれ? 月出くん、逆に体をこわばらせてどうすんのさ?」

「だって・・・女の子にこんなことされたら、余計に緊張しちゃうよ」

「女の子だって思うからダメなんだよ。月出くんのお母さんのこと、思い出してみて」

「僕の、母さん・・・?」

「そう。月出くんが小さい頃、こうしてくれてたはずだよ」

「母さん・・・」


 子供の頃のことは思い出せなかった。

 けれども、母さんが僕にせがんで一緒に散歩して回った神社のお社の風景。


 花が散った後の新緑の桜。


 痛くて眠れないと、早朝に見た、山の背後から昇ってくる朝日の逆光。

 それでより一層黒さがくっきりしていく山の稜線。


「それでね、こうしてぎゅーっ、ってするの」


 小倉姪さんが僕の背骨と胸骨を細い腕で精一杯に締めつけてくれる。

 なんだろう。そういう気持ちじゃない表現し難い切なさで胸がくすぐったくなる。

 僕は彼女の綿のパジャマで覆われた胸のあたりに閉じたまぶたを当ててみる。彼女の体温でどんどん目の奥の芯の部分の気だるさが吸い取られていく。


 もうひとつ思い出した。


日昇光ニショーコーハチが死んでるね』


 そう言って視線を落とした先にはうつ伏せで頭を社殿に向けたスズメバチ。


 つい僕は母さんの手を握った。


 ガンの末期なのに、柔らかくて湿っぽくて・・・そして温かな彼女の手。


「好きだ」

「・・・」

「小倉姪さんも、母さんも、好きだ。大好きだ」


 彼女は僕の髪に何度も口づけてくれた。


 僕はそのまま眠りについた・・・

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