第33話 それでも君と
「――おかえりなさい、くうちゃん」
大丈夫。
きっと震えていなかった。
「あは、ははは……。なんだか、照れちゃうね」
ピリピリするような、チクチクするような。
そんなむず痒さにポリポリと頬をかく。
「ねぇ、固まってないでなにか言ってよ。むずむずしちゃうじゃない」
くうちゃんはびっくりして目を見開いたまま。
……うん、これくらい言うのはいつもの私、だよね?
「くうちゃんってば、そんなまじまじと見られると……ね?」
どうか気づかれませんようにと祈る想いで声を絞った。
「ねぇ、何か言ってよっ、なんでもいいからっ」
これで合ってたのかなんて分からない。けれど、私にはこれしか選べない。
「――――ぁ」
「あ?」
なんだろう、なんて言われるんだろう? 怖い。ドキドキと心臓が早鐘を打っている。
でもなにを言われても言い返せるように覚悟を決めておかなくちゃ。さぁいいよ、くうちゃん。こっちはなんでもござれだからね!
「――ありがとうございます」
え、
「なにが!?」
……だめ、反射的に聞き返せたけどこれは斜め上だって!
このままだとすぐにボロが、ってあぁまたそんな顔でこっち見て!
う~、また振り回されちゃってるよっ。
「なにがとはつまり末那さまの」
「だ、だめっ、言わなくていいから! 恥ずかしいからっ!」
解説なんてされちゃったらいつもどおりでいられなくなるじゃない!
平常心、うん、平常心が大事なの、振り回されてちゃ駄目なの私っ!
「ですが――」
「いいからっ、そんなことよりほら行くよ!」
主導権、うん、私が主導権を握るんだっ!
何かを言われるより先に、くうちゃんの手を取って引っ張っていく。
このときの。久しぶりに繋いだ手の感触を……。ムズムズとして、サラサラしてて、柔らかくって、じんわりと伝わる温もりを。私はきっと忘れない。
「末那さま、どちらへ向かわれるのですか」
「もう少しだよ」
そわそわと辺りに目を向けてばかりのくうちゃんを宥めながら連れ歩く。
「そんなに引っ張らなくとも私は末那さまのお側にいます。逃げも隠れもいたしませんので、どちらへ向かわれるかお教えくださいませ」
……手は離さないけれど、でもどこへ向かっているのかは、いいかな。
「今日がなんの日か、決めたのはくうちゃんでしょ」
「それって……。しかし末那さま、それでは、――っ?!」
言い募ろうとするくうちゃんの手を、さらにぐっと引っ張った。
「いいから行くよっ」
「――――待っていたよ、末那」
ここは穂乃香さんの研究室で、なかには先生も待っていた。
「ご覧の通りこちらは準備ができている」
目の前には二つ、手足を伸ばして寝ることができるくらいの大きさの透明カプセルがあった。
これが穂乃香さんが用意してくれた――――
「さて、と。ほら、くうちゃん」
振り返る。
くうちゃんは大人しく私の後ろに控えている。
戸惑いを浮かべたまま、それでも、おとなしく立っている。
こちらの言いたいこと、してほしいことが分からないくうちゃんじゃない。
だから、
「…………」
黙ったまま動かないでいるのにも、きっと意味があるんだろう。
「くうちゃん」
もう一度名前を呼ぶ。
けれど動かない。
もしかして。
気づかれているのかも。
そうだとしても。
私には冴えたやり方なんて知らないし思いつくほど賢くないし。
だから、
「くうちゃん」
何度も口にしてきた
それでもくうちゃんは動かない。動こうとしない。
「え、っと……。困っちゃうな……」
睫毛は伏せられたまま。こちらを見ない。
こっちを見る穂乃香さんと先生の視線が痛い。
はっきりとは、言いたくないんだけど。
もう一度、穂乃香さんや先生を見た。けれどこちらを見返すだけで、助け船は出してくれないようだった。
重たい沈黙が続く。
覚悟を決めたはずだった。
なにを言われても、なにをされても、いつもどおりを貫いて、くうちゃんを騙しきる覚悟。
でもいざこの段階になると、口は重くて体も言うこときいてくれないらしい。
生唾を飲む音が、やけにはっきりと聞こえた。
「お願い……」
祈るような気持ちで振り絞った言葉に、くうちゃんの伏せられた睫毛がぴくりと跳ねた、気がした。
それは幻想、錯覚なのかもしれない。そんな気がしただけ。いつもハキハキしてて、すぐに応えてくれるくうちゃんがこんな反応するわけがない。
だからこれは、そうであって欲しいと思った私の思い込み。
「……末那さまは、よろしいのですか」
ほっとした。
ようやく口を開いてくれた。
「よろしい、って?」
「…………」
口を閉ざす、というよりもこの沈黙は、言いたいことがまとまっていないような、もどかしさを含んだそれに聞こえた。
「ですから、その……」
くうちゃんの考えがまとまるまで待とう。
「えっ、と……、ですね……」
うまい言葉が見つからないとでもいうように、口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。
「……」
命令、と
それが一番簡単で、ボロがでないやり方だって分かってる。
それでも、納得して自分から入ってもらいたかったから。
じっと待つことにした。
「わた、しは、末那さまの、受け皿になれることが、嬉、しいのです」
それは、くうちゃんには似つかわしくない歯切れの悪さ。
「ですが、だから、その日までは、いえ、この時までは今までよりも濃密に、笑って、泣いて、喧嘩して、手を繋いでは、最高の思い出を……、いえ、今このときに、笑ってお別れできるよう、お側で……」
くうちゃんが可愛くて、思わず目を細めてしまう。
「もう笑い合うことも、喧嘩することも、話をすることも、顔を合わせることでさえ、これからはできないのです」
最後にこんなくうちゃんを見られただけで、私はもう十分だ。
「ですから、もっと、あの部屋で、二人でっ――」
くうちゃんの手を握る。
「っ」
……そんな顔しないでよ。
さっきくうちゃんが言ったんじゃない。笑ってお別れをするんだ、って。
「ありがとう」
私は、笑うから。
「……よろしいのですか、末那さま」
歪んだ表情のくうちゃんの分も笑うから。
「ありがとう、くうちゃん」
それが私の、答えだから。
「っ、末那さま!」
ぶつかるような勢いでくうちゃんの腕が背中に回されて。ぎゅっと強く抱き締められて。
トクリと心臓が跳ねた。
抱き締め返したら、くうちゃんはどんな顔をしてくれる?
でも、それをしてしまったら、くうちゃんを騙しきることなんて出来そうにない。
くうちゃんの首筋、肩に顔を埋める形で耐える。
ゆっくりと離れる両腕と、くうちゃんの温もりと。
真っ直ぐに目を合わせ、混ざり合うような感覚のなかで瞳の奥に吸い込まれ――、くうちゃんはにこりと笑い、カプセルに入り目を閉じた。
そして透明な蓋がゆっくりと閉まりだし――
「しかし意外だった。末那は主人公にはなれないと思っていた」
穂乃香さんが口を開いた。
「安心したまえ。
なかで横たわるくうちゃん。
つるりとしたカプセルに触れると、冷たい感触がした。
「末那は中止すると思っていた。それが私の見立てだった。でもそれは違った。確たる意志でやりきった。まさに物語の主人公だ」
「私じゃないよ。これがお話だとしたら、主人公はくうちゃんに決まってる」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「聞かせてくれないか。くうちゃんと末那のお話を」
「……私はね、そこでもやっぱり病気なの。それで、入院して、そこでくうちゃんに出会う」
「そこまでは変わらないのか」
「それで、私は入院ってのが嫌で嫌で仕方がなくて、外に出られなかったり、じっとしていなきゃいけなかったりで、ふさぎ込んでるの」
「はは、末那は意外と活発な子だからな。自由がないのはつらいだろう」
「そんななかで、くうちゃんと出逢うの。私の、その、メンタルヘルス? それを診る先生として、くうちゃんがやってくるの」
「くうちゃんが担当医じゃないんだな」
「笑わせようと、楽しませようと、気持ちが前に向けるよう、くうちゃんは色んなことをしてくるの」
「そうだな。それこそ思いつく限り試すだろうな」
「それでいつの間にか、好きになってるの」
「恋をしようとして好きになるのではなくて、いつの間にか、恋に落ちているわけか」
「けど、私なんかが、って怖くて言えないの。……私には、なにもないから」
「なにもない?」
「知ってるでしょ? なにもないから、なにかを残したくてこのプロジェクトを始めたこと」
「知ってるさ。そして、そのなにかはプロジェクトの第一号被験者のケースとして残るだろう」
「…………」
「それで? 臆病だから、末那は主人公ではないと?」
「それで、病気が治って、リハビリが終わって、退院をして……」
「して?」
「くうちゃんが、探しに来てくれるの」
「はは、それはまたなんという子供じみた願いだ」
「ね、こんな私じゃ主人公にはなれないでしょ」
「そうだな、そのお話なら末那はどこからみてもヒロインだ」
「でしょう?」
「っくっくっく、面白い、面白いよ、末那。ありがとう」
「どういたしまして」
「さて本題だ、末那。君はこれからどうする? やりきってはいるが、君にはまだいくつかの選択肢が残されている。ひとつめは、このまま生を全うするということ。くうちゃんは
「いいんです、穂乃香さん」
「……いいんだな?」
「いいんです」
「……そっちのカプセルに入れ」
「ありがとうございます、穂乃香さん。先生も、ありがとうございます」
「私はなにも言ってないわよ」
「なにも言わないでいてくれて、ありがとうございます」
「…………」
「それでは閉めるぞ、末那」
「はい」
「後は任せろ」
「お任せします」
「任された」
目を閉じる。最後に聞こえてきた声は、
「おやすみなさい、良い夢を――」
とても優しい声色だった。
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