8章 ウツシエ、トリキメ
第28話 笑って、
私めは達成感に包まれていました。
末那さまを病から開放する義務を負い、移植用医療用素体、バイオロイドNo.9として生まれたこの私が、ついに、やっと、このたび
これが嬉しくないわけがありません。
感情、という不定形の実態がなにか、未だ理解するには及びませんが、私は断言します。
今このとき、私めが胸に抱いている感情は達成感に他ならないと。私めがそう定義づけたのです。たとえ穂乃香さまに間違っていると言われようが、修正は受け付けません。
私めは、末那さまを病の淵から救う為に作られたのです。あとはもう、末那さまの
思い返せば、とても長かったように感じます。
出会った頃は、なにはともあれ末那さまに私めという存在を認めていただかなければと模索しました。趣味嗜好からメイド服を普段着にし、口調を合わせ、末那さまの人となりの把握にリソースを
それからは、移植に向けたこの
これらが間に合うかは賭けでした。
ですが
手術は穂乃香さまと女医先生が執刀されるご予定で、このお二人ならばなんら心配はありません。
つまり。
このチューニングが完了した時点で、私めは与えられた役目を果たしたことになるのです。
末那さまには移植後も、リハビリや各種検査が待ち受けているでしょう。しかしこれまでのことを思えば、強い胆力を持つ末那さまであれば乗り越えることができるでしょう。
末那さまは賭けに勝ちました。
プロジェクト.二人暮らしは私めの手から離れます。しかし、寂しくはありません。
末那さまのこの先に、とても明るい未来が広がるのです。
それはとても喜ばしいことです。
私めは、大変お喜びになられる末那さまを想像しつつ、手を伸ばしました。
「さぁ、私めと二人暮らしを始めましょ――」
もうすぐ、とびきりの笑顔が見られることでしょう。
それはなんと素晴らしい瞬間なのでしょうか。私めはそれを思うだけで、胸がいっぱいになります。
ですから。
「来ないでっ!」
息を、呑みました。
差し出した手は宙空を彷徨い、何も掴めないまま。
「いや、いや、いや……っ」
夕陽に照らされてなお、末那さまのお顔は蒼白と分かるほど血の気が引き
目にありありと恐怖が浮かび。肩は小刻みに震え、足先までその揺れは伝播していました。
「末那、さま?」
それは、末那さまへ向けた言葉ではありません。
口をついて出てしまった、自問です。
なにか、
何が起こったのでしょうか。
把握するため、今日のことを振り返ります。
今日は、遊園地に来ました。先日、末那さまが夢にうなされていたからです。末那さまは夢のことをよく覚えていらっしゃりませんでした。
もっとも、思い出せないことは一種の救いだったのかも知れません。けれど、だからと言ってうなされるほどのこと。
確度の高い情報や、現状把握ができないからといって。移植を前に、精神に支障をきたすこの問を、このまま放置することなどできよう筈がありません。
そこに憂いがあるのであれば、それを取り除くのが私めの役目です。
そこでひとつの結論を導きました。
うなされるほどの
上手くいけばもう二度と、末那さまがこの夢でうなされることはなくなるでしょう。
穂乃香さまのスケジュール、妹の特殊性、末那さまの容態など、いくつもの問題がぽんぽんと浮かびます。しかし、そう。解決不能といえるほど難しい問題はありません。
そして始まった、穂乃香さまと妹のペアを交えたダブルデート。これまで、なんら問題なく行動をすることができました。
穂乃香さまは大変乗り気で、本日もこの集団の音頭を取ってくださいました。おかげで私は末那さまに注視することができました。
妹は
観覧車にこそ乗れませんでしたが、手を繋いで、本物の恋人のように振る舞うことができました。
天気も素晴らしく、末那さまが見とれてらっしゃったのですから、この夕陽だって素晴らしいのでしょう。
では。
どうして末那さまは来ないでと、少しでも距離を取ろうとしたのでしょうか。
そしてなにが、私めに不安をもたらしたのでしょうか。
反芻します。
見つかりません。
反芻します。
見つかりません。
反芻します。
見つかりません。
末那さまは手を繋ぐたび、嬉しそうに笑われました。
手を繋ぐこと。それは末那さまにとって悲しい記憶を上書きする特効薬になっている。
私めはそう認識しました。
そして、トラウマを完全に上書きするために。
今、このとき、この場所で。末那さまに、ご病気が完治できると、二人暮らしの準備が間に合ったと、ご報告したのです。
これ以上無いというほどに、最高のタイミングでした。
控えめに見積もったとしても、末那さまは今日一番の笑顔を浮かべてくれる。
もしかしたらこの私めの胸に飛び込んできて、穂乃香さま達が戻ってくるまで離れてくれないかもしれません。
あぁ、それはとても困ります。
いくら人が少なくなったからといって、抱き合っていては悪目立ちしてしまいます。そんな不躾な視線を末那さまに向けさせるわけにはいきません。このベンチの裏手の茂みに入れば防ぐことはできますが、茂みには蜘蛛などの昆虫がいるかもしれません。
それはそれで困ります。
しかし、それも分かった上での望みとあらば、私は異を唱えることはできないでしょう、と。
そのように想定していたのです。
ですが。
バイタルをみなくても分かります。
末那さまは、怯えていらっしゃりました。尋常ではない怯えです。なにか、命の危険を覚えるほどの恐怖が末那さまに襲いかかったと言うことです。
なのに原因が分からない。
とても由々しき事態です。
末那さまは余命宣告を受けたときですら、取り乱しはしなかったと伺っています。あまつさえ逆提案をされ、私めは、なんと強い精神を持った
そんな末那さまがここまで怯えるだなんて。
末那さまの視線は、つい先ほどまで私めに向けられていました。
少しでも、距離を取ろうとしている?
何から?
まさか。
「もしや、私めの背後に不審者が」
その可能性を、今の今まで失念しておりました。
バイオロイドNo.9、一生の不覚です。常に周囲に気を配り、油断など持ち合わせていない筈でした。
ですが。
やっと訪れた、二人だけの時間。舞い上がっていたのかも知れません。
人がまばらになった夕暮れの遊園地。この時間は
私めは許しません。
あんなに楽しそうに、嬉しそうにアトラクションを楽しんでらした末那さまが。
今では
しかし。
振り向いたところに、不審者はおろか
では一体、誰から?
釈然としませんが、とかく末那さまを落ち着かせなければなりません。
その震える背をさすろうと、もう一度手を伸ばします。が――
パシン。
その軽い音は。
末那さまの手によって、はたき落とされてしまいました。
「末那、さま?」
「……さわらないで」
それは。他にどう捉えることが出来ないほどの、明確な拒絶でした。
「末那、さま」
「おねがいだからっ。だから、ちかよらないで……」
末那さまからのお願いを、私めが無下にできよう筈がありません。
「
ベンチを立ち、距離を取ります。それでもなにかあればすぐに駆けつけられるよう、末那さまの視界ギリギリ外側に控えます。
はたかれた手が、ジンジンと痛みを主張していました。
ここに至り。なにがなんでも、理解せざるを
末那さまは、私めから距離をとろうとしていたのだと。
ですが、やはり分からないのです。
私めは、なにを間違えたのでしょう?
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