第15話 冥界からの魔物

「あれ、外出ちゃうけど大丈夫?」


 順路通りに館内を巡り、最後に辿り着いたのは外に繋がっている自動ドアの前だった。


「はい、順路通りです」


「そっか」


 自動ドアが開くと正面には高い壁があった。


「この壁ってなに?」


「はい、こちらはプールの護岸です」


「プール?」


 ふと左を向くとなだらかなスロープの道があり、その道はカーブを描いていた。

 きっと円形のプールに沿って上がっていくのだろう。


「では末那さま、ゆっくりと上がりますが足下に注意してください」


「うん、分かった」


 スロープには滑り止めの丸い輪っかみたいな溝が掘られている。

 天気も晴れだし、くうちゃんがこのスロープの途中で足を取られることはないだろう。


「行きますよ」


「いつでもどうぞ」


 けれどもしそうなったとき、自力で車椅子のブレーキを掛けれるくらいには気を払っておく必要がある。


 両手はブレーキハンドルに掛けたまま、ゆっくりとスロープを上る。


「ねぇくうちゃん、このプールには何が泳いでるの?」


 高かった壁のてっぺんがゆっくりと見えてきた。


「何が泳いでると思いますか?」


「んーと……」


 外のプールで飼われている生き物で、水族館にいる生き物。


「イルカ?」


「違います」


「それじゃ、アシカとか?」


「それも違います」


 なら、他に外の水槽で飼ってるのって?


「では特別ヒントです」


「うん」


「その生き物は学名をオルキヌス・オルカといい、冥界からの魔物と呼ばれています」


 冥界からの魔物?


「海のギャングの異名を持ち、イルカやアシカを襲い、ときにはオモチャにして遊びます」


 すごく凶悪な生き物らしい。


「えぇっと……」


「上に到着致しました。さて末那さま、プールのあちらをご覧ください。水面から黒い大きな背びれが出ているのが見えますか?」


「う、うん、あれってもしかして」


「そう、海の生態系の頂点に君臨する生物、シャチにございます」


 ここからじゃまだ黒い背びれしか見えないけれど、それが出たり沈んだりとプールの中を泳いでいるのが見てとれた。


 ざっと五頭はいるのだろうか。


「さて末那さま、こちらの左手が観覧席になっております。これからシャチのショーが始まりますので、どの席に座りましょうか?」


 プールばかり見ていたけれど、その外側は野球のスタジアムみたいなつくりの観覧席になっている。

 席はすでに半分ほどが埋まっていて、とくに真ん中から上の段が人気のようだ。


「ねぇ、なんでみんな上から見るの? 近い方がよく見えるんじゃ?」


「はい、ショーではシャチのジャンプなどが見れますが、下段だと首を上に向けないといけないので辛くなります」


 そっか、だから見下ろすことができる高い席の方が人気なんだ。


「それにどうやら、小さなお友達に下段を譲っているようですよ?」


 客席の人を見れば確かに、下段には小さな子ども達が座っている。

 なかには、いまかいまかと待ちきれない様子で椅子の上に立っている子もいるけれど、ショーの飼育員さんはまだ出てこない。


「上段、下段、どちらもまだ二人分の席はありますね。末那さまは車椅子ですが、どちらでもお選びいただくことができます。いかがしますか?」


 上から見ると疲れない。下からは近くで見れて迫力がある。


「……車椅子なのにこういう時だけ上に行くってのも変だから、一番下の段にしよ?」


 普通に歩けるけれど、逆に人の目が集まりそうでやりにくい。


「畏まりました。では、車椅子はこちらに畳んで席に座りましょう」


 くうちゃんの手助けを受けて下段の椅子に座り直す。

 ちょっと芝居くさかったけど、特に気にする人はいなかったみたいだ。


「ショーはどれくらいで始まるの?」


「もうあと五分ほどでしょうか? その前に、末那さま。こちらの合羽カッパを羽織ってください」


 くうちゃんが鞄から取り出したのは、透明なビニールで、上からすっぽりと被るタイプの服だった。


「なにこれ?」


 顔の前も透明なビニールで塞がれていて、けれど息は吸いやすくて前もくっきり見えている。


「はい、こちらは雨合羽アマガッパです」


「雨合羽ってなに?」


「濡れないように着る防護服です」


「そうなんだ……」


 雨の日に病院で見かけるのは傘ばかりだし、こんな服もあるんだ。


「特にこちらは液晶画面に貼る保護シールから発明された、高性能雨合羽です。空気は通しますが、水の分子は通さないという特殊なフィルムで作られており、合羽特有の蒸れや視界のくもりを起こさないのが特徴です」


「でも、雨は降りそうにないけれど」


 天気は快晴、風もない。けれど頭からすっぽりと防護服を被っている。なんかとても変な感じがする。


「これだけ近い場所に座ると、ジャンプしたシャチが着水するときに水が跳ねてかかります。それを防ぐために必要な措置です」


 確かに、これだけプールの近くにいれば水が飛んでくるかもしれない。


「でも、こんな大げさなの着てるの私達だけだよ?」


 上の段に座る人が着てないのは分かるけれど、同じ段に座る子ども達も着ていない。


「きっと今から、あぁ、飼育員さんが大きなビニールの幕を持ってきましたね。子ども達に使い方を説明していますが、あれで防ぐのでしょう」


 プールの奥にあるステージにも飼育員さんが上がっている。

 手にはバケツを持っていて、なかには魚が山盛りに入れられていた。


「では、ショーを楽しみましょう」


 飼育員さんが手を上げる。すると横一列に並ぶ形でシャチが水上に顔を見せ、お辞儀した。


「賢い……っ」


 全部で七頭いたらしい。飼育員さんが笛を吹くと、一頭ずつ円を描くようにプールの外周を泳ぎ出す。


 大きな円を描くと流れるようにそれぞれ別れて七つの円を形作った。


「うわぁ……」


 笛の合図で飼育員さんの元に戻ってきたシャチたちは、水面から一斉にジャンプしてステージに黒い体を乗り上げた。


「でっかっ!」


 上からは黒い背中しか見えなかったけど、お腹側は真っ白でくっきりとした線で黒白ついている。目の周りも縁取りされたかのように白くなっていて、なるほど、すごく綺麗でかっこいい。


「すごいねっ」


 飼育員さんは順に七頭それぞれの鼻を撫で、バケツに入れられていた魚をぽいっと口に投げ入れた。


 ご褒美を貰ったシャチからプールの中へ戻っていくが、最後の一頭はなにかの合図を待っている。


「あの子はなにを待ってるのかな?」


 飼育員さんが笛を吹く。そしてステージの上にいたシャチがこちらの方を振り向くと同時、水面から一斉に六頭のシャチがジャンプした。


「っ、っ!」


 その体の三倍はあるだろう高さまで上がり、ワイヤーで上に吊されていたバルーンに鼻先をタッチする。


「あんなの最初からあった!?」


 今まで全然気付かなかった。というか下ばかり見ていたし、下段じゃ首が痛くなると言うのも頷ける。


「っくぁ!?」


 そして落ちてきたシャチがバッシャーンと水面に潜っていき、その飛沫が雨合羽を叩く。

 とっさに向こうの子ども達を見ると、上手くビニールの幕を持ち上げて笑っている。


「すごいっ、すごいね!」


 と、ステージにいたシャチがプールに降りて、飼育員さんがその背中に跨がって手を振った。


「なになに、そのまま泳ぐのっ?」


 思っていたとおり、シャチは両手を振る飼育員さんを背に乗せながらプールを一周した。他の六頭はそれぞれにジャンプをしてキラキラと背景を輝かせてる。


「綺麗……」


 飼育員さんが大きな輪っかのついた棒を持ち出したと思ったら、シャチ達がジャンプして輪をくぐり抜けていく。


 そして。


「あ、こっちに来てくれた!」


 七頭のシャチが勢揃いして、観覧席側に泳いできて顔を出してくれていた。つやつやてかてかしたシャチ達がこちらを覗き込んでいる。


「末那さま、お手を拝借致します」


「ぇ」


 突然くうちゃんが手を握ってきて驚いたけど、合羽の上から素直に繋ぐ。


「始まりますよ」


「ぇ?」


 プールに目を戻せば、こちらを覗いていたはずのシャチ達が後ろを向いている。

 そしてぱっと尾びれを突き立てたと思いきや一斉に振り下ろされた。押し寄せてくる水の壁に体がすくむ。


「っぐ、っぅ、ちょっ!」


 水飛沫なんて軽いものじゃない。ごぼごぼとした音しか聞こえず何も見えない。

 椅子からも仰け反り落ちそうになったけれど、それは直前に繋がれたくうちゃんの手のおかげで助かっていた。


「末那さま、ご無事ですか?」


 ほんの何秒かなんだろうけど、とてもとても長く感じた。


「なん、とか……」


「合羽着ていて良かったでしょう?」


 子ども達を見れば、ビニールを持っていたのにびしょ濡れになっている。

 それでも正面からの水は防ぐことができたのだろう、椅子から落ちるような子はいなかった。


「うん、すっごくどきどきした」


 プールを見れば、シャチ達は始まった時と同じように横一列に並んで待っていたようだ。

 飼育員さんが礼をする。それに合わせてまた一斉にジャンプして、シャチのショーに幕が下りた。


「いかがでしたか?」


「うん、もう、すごいね水族館!」


 また来たい。今日はシャチのショーだけだけど、土日にはアシカショーやペンギン散歩なんてのもあるらしい。


 飼育員さんがお別れに手を振っている。


「ではいつかまた来ましょうね。今日のところは帰りましょうか」


 くうちゃんに手伝って貰って合羽を脱いで、車椅子に乗り直す。


「うん、でもその前に」


「はい、なんでしょうか?」


 改札が近づいてくる。


「凄かったって伝えなきゃ!」


 ありがとうって。楽しかった、また来たいって、話したいことはいっぱいだった。

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