第11話 車椅子の乗り心地

「あとはもう、ここを抜ければすぐですよ」


 エレベーターで降りた先はこの病院のエントランスホール前。

 向かって正面に見える総合受付はどこも対応中になっていて、並んでいる長椅子もどこの席も空いてない。


 そして当然、ここを行き交う人もいっぱいで。


「えぇっと、この人波に混じっていく気?」


 車椅子デビューはついさっきだよ、それでいきなりここはキツくない?


「末那さま、ご心配は不要です。ここは大船に乗ったつもりで私めにお任せください」


 いまいち信じきれないけれど、お任せくださいと口にする時のくうちゃんはなんだかんだでうまくする。だからこれも本当に大丈夫なんだろう。

 だとしたら私に出来るのは、くうちゃんを信じてじっと座っていることだ。


「……安全運転でお願いね?」


 でもやっぱり緊張はする。


「はい、承りました」


 くうちゃんは軽い調子で頷いて、ゆっくりと車椅子を発進させた。

 車椅子の目線の高さは歩く人の腰くらい。いつもと違う目線で見るエントランスは少しだけ広く見えた。


「末那さま、車椅子の乗り心地はいかがでしょうか?」


「乗り心地? 思ったより悪くないかな」


 行く波と来る波を読み、スイスイと泳ぐように車椅子は進んでいく。

 もっとカクカク動いたり、人とぶつかりそうになるかと思ってた。


「視線はどうでしょう?」


 言われて気づく。車椅子は目立つから、他の人の目が気になってどうかと思っていたけれど。


「そう、だね。そんなに見られてもいない?」


「はい、末那さまの感じられた通りです。すれ違う方々の目は、末那さまや私めよりも車椅子の車輪などに向けられております」


 ……そうなんだ。


「ここが病院だからということもあるのでしょう。大抵の方が車椅子を見慣れており、ぶつからないように歩く方法を知っています」


「え、そんな方法があるの?」


「ありますよ。大抵の方は無意識でそれを行いますが、出来ない方でも訓練次第で出来るようになります」


 今も流れに乗ったまま、確かな足取りで廊下を進む。


「例えば、今ちょうど向こうから来られる方が見えますか?」


「うん、このままだとちょっとぶつかりそうな気がするね……」


 すれ違い様に、ほんのちょっと手がぶつかるようなそんな位置。


「はい、ですが……。ほら、まだまだ手前なのに足先をズラしたでしょう?」


「うん、くうちゃんも反対側に少しけたね」


 互いに譲り合ったことで幅が広がって、すれ違い様には人一人分の余裕があった。


「車椅子は目立ちますから、相手にとってはその分かなり手前から回避行動がとれるようになるのです。そしてあの方は、車椅子に気づいて持ち手に目をやり幅を読み、車線上を推察し、少しの軌道修正で見事に衝突を回避しました」


 ようは混雑する駅のホームで人とぶつからないで歩くみたいな、そういう感覚なんだろう。


 テレビでしか見たことないけど、私には抜けれる気はしない。


「車椅子と対向した方は回避行動をとるために、無意識的に車輪や持ち手に目を向けます。なので反対に、利用者や介助人にはあまり目が向けられません」


「なるほどね」


 メイド服のままだったらどうか分からないけれど、車椅子だけならそんなに見られることもないんだ。


「さて、末那さま。この向こうが中庭へとなっております」


 気がつくと目の前には自動ドア。


「あ――」


 その扉が開かれて、生き生きと育つ植物たちが出迎えた。


「ゆっくりと参りましょうね」


 青い空に向かう木々と地に茂る草花と。そのコントラストが眩しくてまばたきをする。


「今日の天候は、快晴に設定されているようです。お部屋でお話した通り、この空は埋め込まれた天井照明シーリングライトが作っております。その光を吊り下げ式の天幕が透過させて拡散し、空を形作っています」


「うん、前に来たことあるからその辺りは大丈夫」


 それよりも今気になるのはむせ返るような緑の匂い。スンスンと鼻を鳴らすと、それに気づいたくうちゃんが辺りに目を向けた。


「あぁ、散水されたばかりのようですね。10分ほど時間を開ければ薄まるでしょうが、この香りはお嫌いですか?」


「うぅん、雨上がりの匂いは嫌いじゃないよ、むしろ好きな方」


 なんというか、眠たくなるようないい匂いだと思う。


「それでは道なりに行きましょう」


 まだ入り口あたりだからか、この辺りは背の低い植物が植わっている。

 とがった葉っぱやテカテカとした葉っぱ、それに黄色と緑のまだら模様の葉っぱといった個性豊かな植物たちだ。


「順にアグラオネマ、アスプレニウム、その下側に生えているまだら模様がキャッサバという低木です。ちなみに、このキャッサバからとれるデンプンがタピオカの原料になります」


 流石はくうちゃんだ、きっと全部頭の中に入っているんだろう。


「すごい、全部覚えてるんだ」


 料理も裁縫も出来て植物にも詳しいなんて、ほんとくうちゃんは頼もしい子だ。


「いえ、これに関してはただ画像認識した情報をスカイネットにて照合し、逐次ちくじ出力を行っているに過ぎません」


「ぅん、スカイネット?」


 ぇ、なにこれどういう話?


「インターネット通信網の俗称ぞくしょうです。元はダイヤルアップ接続と呼ばれる電話回線から始まりました。それがインターネット専用回線であるADSLになり、光ファイバーへと進化していく中で情報の集積が行われるようになりました」


 ……全然意味が分からない。


「えぇっと、それで?」


「情報の集積、Peerピア Toトゥ Peerピアと呼ばれる技術です。黎明期れいめいきにはこの研究者が処罰される事態にまで発展しました。しかしこれが進化し、クラウドというシステムが完成し、その進化系が現在のスカイネットです」


「ごめん、わかんない」


 インターネットはインターネット、それより難しいことは分かんない。


「クラウドは通信網で接続された、サーバーという場所にデータの集積をしていました。それに対しスカイネットは、サーバーに頼らず、その通信網の回線自体にデータを集積しています」


「ごめん、くうちゃん。そういう意味じゃないんだけど……」


 丁寧に説明されても困るっ。


「申し訳ございません」


「あ、うぅん、ごめんね、そうじゃなくって」


 こういうときに浮かぶのは、くうちゃんが求められた結果を返すロボットだということだけど。


 でもそんなのは関係ない。


「ぇっと、くうちゃんは楽しい?」


「楽しい、ですか?」


 人間だって、説明好きな人がいる。


「うん、楽しい?」


 それはお喋りがしたいのかもしれないし、自分が大好きなモノを知ってほしいという気持ちからなのかもしれない。


「私めは末那さまのお傍に居られるだけで嬉しゅうございます」


「うぅん、そういう意味じゃないの」


 そう言ってくれることに悪い気はしないけど、今欲しいのは楽しいかってこと。


「それじゃくうちゃん、辞書にある楽しいと嬉しいの違いは分かる?」


「はい。嬉しいには結果的に、という意味が込められています。楽しいは今の意味です。ですから、今が楽しいとは言いますが、今が嬉しいとは言いません」


 とてもよく似ているけれど、ニュアンスが少しだけ違う。


「それじゃくうちゃんは、嬉しいってのがどういうことか知ってるんだよね?」


「はい」


「じゃ、楽しいは?」


「実感としては分からないです」


 今度はくうちゃんが困っていて、それが少し可笑しく見えた。


「なら教えてあげる」


 くうちゃんが恋を知るために。うぅん、感情を覚えるためにもきっとこの気持ちは大切だろう。


「今がずっと続けばいいな、って思うこと。それが楽しいってことだよ」


 くうちゃんは神妙な顔を浮かべたまま見返した。


「そう、なのですか」


 分かってしまえばそんなに難しいことじゃない。でも分かるまでが難しい。


「私はね、くうちゃん。病と闘うには燈火がいるって先生に言われてね」


「はい」


「それでくうちゃんがやってきて、びっくりしたり、困ったりすることもいっぱいあるし、嫌なこともあるけれど。それでもすっごく楽しいの」


 今すぐに分かってなんて言わないけれど。


「私にとってくうちゃんは燈火ともしびで……。えっと、そこから出る光ってなんていうの?」


燈明とうみょうですか?」


「うん、私はくうちゃんのおかげそのトウミョウで、病のことを忘れウタタネしちゃうくらい助かってるの」


 せめて私がそう思ってるってことくらい、くうちゃんには知っておいてもらいたい。


「……ありがとう存じます?」


 きっとくうちゃんは、楽しいって言葉の意味をまだ理解していない。けれど何かは伝わって、だから答えに迷って聞き返すみたいな言い方になったんだろう。


 だから私は期待を込めて笑ってみせる。


「明日連れてってくれるトコ、楽しみにしてるから」


 くうちゃんはやれやれと首を振り、


「あちらの植物は――」


 と車椅子を進ませた。

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