第5話 さよならと言えばそれまでの
右も左も分からずに、病室を連れ出されたのが
着いた先はこの病院の最上階の、レトロモダンなスイートルーム。
ちんぷんかんぷんだったけど、それが[プログラム]の一部と聞いて、そのまま移り住むことにした。
ほんとなら検査室で横たわっている時間。
くうちゃんは元の病室と行ったり来たり、漫画を
せめて、この部屋の本棚に並べるくらいは手伝おうとしたけれど。
おくつろぎくださることがなによりです、とクイーンサイズの大きなベッドに
今はそのベッドで横向きになり、テレビを
「末那さま、お荷物の運び入れが済みました」
「もう終わったの?」
こっちはふかふかベッドで寝てただけ。お願いされたことだけど、それでもやっぱり
起き上がり、ちょこんとベッドの上に座りなおした。
「
本棚はシリーズと背の高さ順で並べられているようだ。『サクラ学舎の三人娘』は一番手の届きやすい場所に並んでいる。
「……そんなに急がなくていいのに。疲れたでしょ?」
「お
「そういうわけじゃないんだけど。でも、ありがと」
向こうにあるのは漫画くらいだ。すぐに要るものでもないし、ゆっくりやっても困らない。
「なんなりとお
礼を残して背を向けたくうちゃんは、新しい本棚の前に立ち、うんうんとしきりに
もしかするともう一つ、新しい本棚が要るのかも。
でもこの部屋はとても広いし、置き場所には悩まない。
「末那さま、末那さま」
なにか嬉しいことがあったのか、くうちゃんの声は弾んでいた。
「どうしたの?」
くうちゃんの視線の先には
「ドキュメンタリーを見ていらしたのですか?」
「ぁ、うん。なんて番組名だっけ、なんか海の特集なんだけど、いつもは検査室だから。こんな時間にこんなのやってたなんて知らなかったよ」
くうちゃんはテレビのリモコンを手を
「『ヒートラン。
「そうそう、それ。追いかけるってすごいよね。ぁ、くうちゃんはクジラって知ってるの?」
「はい。海に行ったことがなければ直接見たこともありませんが、知識としては持っています」
「そっか。それじゃ私と同じだね」
私の場合は海とか言う前に、この病院の外にすら出たことないけれど。
漫画やテレビを通して、外に何があるかくらいは知っている。
「クジラとは、
「え?」
「っえ?」
「クジラさん……、食べちゃうの?」
テレビでは、
「食べない……、のですか?」
心の
それが私にとってはびっくりだ。
「怒らないから、どうしてそう考えたか教えてくれる?」
かっこいいとか
でもどこからどうして
「はい。末那さまは朝食を、美味しいと
「それで?」
くうちゃんはどことなく気まずそうに、琥珀色の瞳を下に向けている。
「
だから動物見てたら美味しそう、て思うだろうと?
だとしたらちょっと、ううん、結構失礼なんじゃない?
「……それで?」
「恐れ入りますが、私めは感心していたのです」
感心ね。
「ご
「魚を食べて、その後に見てたテレビが魚だったから、てこと?」
私はそこまでの
「いいえ、違います」
「それじゃどういうこと? それに感心て言ってたけど何のこと?」
「ですから。末那さまがお召し上がられたそれは、まさにそれのそれでして」
とても言いづらそうに、くうちゃんはそればっかりを繰り返す。
「はっきり言ってくれなきゃ分かんない」
あ、バイオロイドでも目が泳ぐんだ。
なんてことに気づいたけれど、今はそういう場合じゃない。
「その、ですね」
くうちゃんは意を決したように、ぐっと顔を持ち上げてこちらに目を向けた。
「クジラです」
なんとなく、これ以上は聞いては行けない気がしてた。でもここまできたら、聞かずになんていられない。
「だからなにが?」
「つみれ汁の具材が」
わお。
食べちゃうの? て聞いておきながら、実はもう私が食べちゃってたなんて。
どの口が言ってんだ、て話だよね。
「末那、さま?」
「あぁ、ごめん、ちょっとまって」
会話はキャッチボールであるらしい。
だとすると、くうちゃんに
「末那さま、テレビ見ましょう? 海が綺麗でございますっ」
テレビと私の顔を交互に行き来するくうちゃんの
「きらきらしてるね」
「きらきらしてますね。あれは太陽光を水面が反射している現象で、波によって様々な角度で反射されることで
「へー」
「これはレイリー
「そうなんだ」
「朝、夕に空が赤く染まるのは、太陽光の入射角が変わることで地上に届く青の波長と赤の波長のバランスが」
「すごーい」
「末那、さま」
ぁはは。
「あー、感心だっけ? どの口が言ってんだー、みたいな?」
「いいえ、違います。末那さまは
くうちゃんにとっても、予想外だったんだろう。
声に悔しそうな色がのっている。
そっか。
この子は私のために、私にあわせて作られた医療用バイオロイドなんだから。
攻撃してきたり、嫌なことをするなんて絶対にありえないんだ。
「もう、分かったから」
今回はたまたま、そういう事故が
「では、お
「え、どこ行くの?」
これからどこかに用があるのか、部屋を出ようとする背中に声かけた。
「先生の元へ、二人暮らし解消のご報告に向かいます」
え。
「いやいやいや! ちょっとまって、私は出てけなんて言ってないっ」
「そうなのですか?」
はっきり口にしないと分からないのは、私だけじゃなかったみたい。
「あー、もう! くうちゃんは、これからもここにいていいの! ご飯だってお願いねっ」
「それは。大変
「もう、こんなことで出ていってなんて言うわけないよ」
女医さんは言っていた。
『[プログラム]はなんら保証がありません。なのでどんな時でも本人の意思により、一方的に中止することが許されています』
いつだって、一方的に中止することができること。
本当の意味でそれが分かった。
「ほら、こっち来て」
トントンと、ベッドに座る私の
「ここに座って、テレビ見よ? それともまだ出かける用事ある?」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
くうちゃんはベッドに上り、いそいそと隣にやってくる。
まるで、漫画で主人公の家にお泊りに来た友達みたい。
「どうかされましたか?」
やりたいこと、ひとつ生まれた。
「うぅん、なんでもない。あ、新しいクジラの
この[プログラム]がどういうもので、助かるのか助からないのか今はまだ分からない。
助からなくていい。ただ残せるものがあるのなら、とそういう風に思ってた。
けれど。
もし、まだ私にできることが残されているのなら。
いつか、漫画みたいな
いつでも一方的に中止することができるから。喧嘩をするのはすごく難しいことなんだろう。
くうちゃんにとっては、生まれた理由そのものが私らしいから。
今みたいに一方的に、私が怒るだけになるかも。
そうだとしても、だから出ていって、なんて言うつもりなんかない。
友達だったら喧嘩をしても、学校で嫌でも会うことになる。
家族だってそう。喧嘩して、顔も見たくないっていうのに朝には同じテーブルで、ご飯を食べなくちゃいけない。
くうちゃんと私の関係は、さよならと言えばそれまでの、細くて弱い繋がりで。
だったら、
出ていって、なんて言わないことを、くうちゃんに伝えなきゃ。
喧嘩するには
そう、『サクラ学舎の三人娘』にもあった。
だったら、くうちゃんがこんなことで出ていくなんて言わないように。
不安に思わせないように、はっきりと口に出して伝えなきゃ。
ここにいていいんだよ、って。
あぁ、でもやっぱり恥ずかしいから大丈夫かな。
でもちゃんと言えたら嬉しいな。
もしそこでくうちゃんが、ここにいていい理由、必要とされる理由が欲しいというのなら。
並んでテレビを見れること。
もうそれだけで、私にとっては充分な理由になるんだよ。
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