第5話 K.331(300i)

 パリというのは本当に酷いところだ。成金の高慢ちきのくそったればかりだ。道には本当に糞尿が放置されている。とてもじゃないが散歩などする気にもなれない。およそ芸術とはかけ離れたところだ。


 すぐにでもドイツに戻りたい。父の命令で公爵家に遣わされているが、母の容態もよろしくない。一日も早くここから逃げ出したいが、そういうわけにもいかないのが現状だ。


 今夜のこの晩餐会も、どこぞの軍隊のお偉いさん方を招いていて、確かに普段とは趣が違っていて、少しばかり若い女性が多い気はしていたが……


 先ほど役目を終えて座を辞してから、テラスで一人溜息を漏らしつつぼんやりと月を眺めていると、背後に人の気配を感じる。


「あの、、、神童様、、、」

「よしてくれ。その呼ばれ方は客寄せパンダみたいで好きじゃない」


 晩餐会の後の演奏会の客中にいた娘だな。中東系で普段は見慣れないが整った顔立ちをしている。ターコイズブルーの民族衣装-カフタンと言っていただろうか-を纏っている。


「では、ウォルフ様」

 正直に言えば敬称をつけられるのもやめてもらいたいが、たしかではよりも男尊女卑が徹底していたハズ……


「先ほどの演奏は本当に素敵でございました。一言お礼をと思いまして……」


 手渡されたペンダントトップ。月明りを浴びてキラキラ輝くのは宝石の常だが、傾けると色が変化する一風変わった宝石がついている。


「私の故郷で算出される宝石でズルタナイトといいます。今夜の素敵な演奏のお礼とお近づきのシルシに」

「演奏会は婦人の社交でその報酬は貰っている。お礼をいただく理由は」「私は」


 俺の言葉を遮るように少女が上目遣いで告げる。


「私は来週、結婚します」


 訳がわからない。だからなんだというのだろう?


「いわゆる政略結婚というものです。今夜の晩餐会は社交界デビューの練習といったところです」


 少女が語る身の上話は、要約すればこうだ。

 ヨーロッパ全体に広がるオリエンタルブームにのって、アンカラ近郊の軍上層部がその子女を差し出し、ヨーロッパ各国の貴族との繋がりを作っており、自分はその一人だと。祖国でも女性はたいして自由になることなどないが、友人知人親兄弟とも離れ、遠い異国に一人で人質として差し出されるこの身に人権などありはしないと。


「本当は逃げ出したい。ですがその後のことを思うと


 少女は気丈を装いながら、流すまいと、こぼすまいと、必死に涙を堪えながら訴える。


「ですが、ウォルフ様の演奏を聴いて勇気が出ました。かように素敵な音楽がある国でなら生きていけるかもしれないと。祖国のために耐えられるかもしれないと。ですからその宝石はお礼です。もしも。もしも過ぎた礼だとおっしゃるのでしたら、残りを報酬として私に、遠い異国で果てることになるであろう私たちに、今一度勇気をいただけないでしょうか」


 堪えきれず溢れる涙をぬぐいもせずに、少女は肩を震わせながら必死で訴えていた。


「……承ったうけたまわ。この宝石とあなたの涙を預かった以上、このヨーロッパであなた方が一人ではないのだとわかる楽曲を届けよう」

「ありがとうございます…… ウォルフ様」











 約束が果たされるのは数年後のこととなるが、世界有数の単独演奏楽章を持つピアノソナタはこうして生まれたとか。

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