第3話 トローニー

 筆を持つ手が止まる。


 密かにこの絵を描き始めてからずいぶんと経つし、ウルトラマリンの高価な絵の具を使い、自由に描かせてくれるパトロンのためにも書きあげねばならないのはわかっている。


 --ヤン


 彼女の声が脳裏をよぎる。


 --もっと早くに出会えていたら


 止めて欲しい。ありえたかもしれない未来を人質に私の心を搔き乱すのは。


 --私、きっといい奥さんになったと思うよ


 ダメだ。それはよくないことだ。


 --今夜は、私のことだけを見て欲しい


 デン・ハーグでの祭りの夜、一夜限りの出会いと別れ。彼女とはあの夜以来会っていない。それはそうだ。これでも私は芸術家ギルドの理事だ。芸術家にだとはいえ、あまりにも外聞が悪い。


外聞。自分のことながらため息とも嘲笑ともつかない笑いしか出てこない。


誰とも言えず想像の女性とするしかない現実に。


あの夜を思い出すたびに。


艶めかしいあの肌を思い出すたびに。


自己嫌悪と同時に、得も言われぬ高揚と身体の高ぶりを思い出す。



贈ることができなかったこのを、絵の中に閉じ込めることで全ての気持ちを、一緒に塗り込めることでしか、彼女を忘れることができないのに。


そうしてまた、筆を持つ手が、止まる。

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