第3話 ‐悪魔が笑っている‐

 《パラサイト》の遺伝子デザインが順調に進んで、さらに1か月が経った。《パラサイト》は、遺伝子を取り込む機能以外に、監視に引っかかる要素が無いから、デザインソフトを中心に作業が出来たことが大きい。

 ただ一度だけ、イギリス政府保健省から《パラサイト》の遺伝子デザインの目的について問い合わせがあった。

 遺伝子を取り込む機能だけを持つ生物なんて、今の社会で何に役に立つのか分からないから、不思議に思われたのだろう。

 フランクと相談して、遺伝子デザイン生物の作製を自動化する研究に資するためと回答した。《パラサイト》の機能の核心に迫った答えで、相手がこちらの最終目的に気づく可能性もあった。だが、変に嘘をついて怪しまれるほうがまずいと判断したのだ。

 《パラサイト》の機能を実際の社会で役に立てるのなら、それはデザイン生物を工業的に大量生産する用途だろう。特定の遺伝子断片を大量に用意して《パラサイト》と混ぜ合わせることで、多様なデザイン生物を一度に大量生産できる。ひとつひとつに《ビーグル》のナノロボットを使っていくより、はるかに効率が良い。

 それからしばらく経ったが、保健省からさらなる問い合わせは無い。《パラサイト》とセットになる遺伝子断片の詳細を知らなければ、幹細胞の制御まで機能に折り込んでいるとは気づかれないだろうという確信もあった。

 だから、その日、研究室の顧問についていた生物学の教師に呼び出されたときには、何が起こったのか咄嗟に理解できなかった。


「ロンドンからイギリス政府保健省の遺伝子監督官が来ている。お前たちに話があるそうだ。研究しているデザイン生物の件だと言っている」


 生物学の教師は露骨に眉をひそめて不快感を隠さなかった。このイギリスという国で遺伝子監督官の権限は大きい。何か問題があれば、フランクとジミーだけでなく研究室の設置を許可した学校にまで処罰が及ぶ可能性があった。


「遺伝子監督官殿は応接室でお待ちだ。まずは、お前たち二人と話がしたいらしい」


 生物学の教師に先導されるかたちで、応接室に移動する。その道中、フランクはうつむいていた。その表情を読み取ることは出来ない。

 なぜ、このタイミングで遺伝子監督官がやって来たのか疑問だった。遺伝子デザインは、監視に引っかからないように細心の注意を払っていた。《パラサイト》本体の情報だけで、人間を怪物に作り替える機能があると判断されたとは思えない。

 保健省に回答した研究内容に関する質問だろうか。社会的に有用だから、その詳細を尋ねにきたのかもしれない。

 だが、どれだけ楽観的に考えてもその線は無かった。遺伝子監督官の仕事は、その名が示す通り遺伝子に関する事案を監視し、状況によっては処罰を下すことだ。

 その遺伝子監督官が直接乗り込んできている。何か決定的な証拠を掴まれたとしか思えない。


「やあ、君たちがフランシス・グレイとジェームズ・ウェストかい。私はジョン・カウフマン。遺伝子監督官なんてお堅い肩書きがあるが、楽にしてくれ。未来に名を残すだろう若き科学者達に会えて光栄だよ」


 応接室に着くなり、カウフマンと名乗った遺伝子監督官が立ち上がって握手を求めてきた。口調も軽く、見た目にも厳しい印象は一切ない。

 カウフマンは小洒落たストライプのスーツを着込み、金髪ブロンドを短く刈り込んで、シルバーの細縁の眼鏡をかけていた。柔らかい物腰だが、身体つきはしっかりしているように見える。

 ジミーは遺伝子監督官という肩書きのついた人物に会うのはこれが始めてだった。遺伝子に関する規律を守る番人であり、保健省の中ではトップエリートだというイメージを持っていたのもあって、この状況には面を食らっていた。カウフマンの態度はどうみても友好的だった。こちらを処罰しにきたとは思えない。

 呆気に取られていると、フランクに脇腹をひじで小突かれた。フランクに油断の表情は無い。お前も気を抜くなと目が訴えていた。

 フランクはこの状況にあっても、観念していないようだった。一度やると決めた研究だから、何があっても最後までやり通すつもりだ。

 だから腹をくくった。ここは二人で切り抜けるべき場面だ。


「僕らもお会いできて光栄です。カウフマンさん」


 フランクが外行きの作り笑顔でカウフマンの手を握る。いつもの率直で分かりやすい表情と明らかに違っている。ジミーが初めて見る、仮面を付けたような笑顔だった。


「初めに言っておくけど、私は君たちを処罰しに来た訳じゃない。そう警戒しないでくれ。先生も、すいませんが席を外してもらえますか。これから、二人に大事なお話がありますので」


 カウフマンは大事なという部分を強調して、生物学の教師を退席させた。暗におおやけにできない話をすると匂わせていた。面倒に巻き込まれたくない教師はこれ幸いとばかりに、何かあれば呼んでくださいと愛想をふり巻いて消えていった。

 カウフマンと机を挟んで向かい会うように座る。


「さっそく要件をお伺いしても良いですか。カウフマンさん。僕らに一体、何をさせたいんですか」


 遺伝子監督官という強い権限を持った人間が来たのだから、ただ友好を深めるだけの話になる訳がない。率直に要件を聞き、可能であればこちらに有利になるように交渉を進めていかなければならない。

 カウフマンは目を細めると、友好的な笑顔を消した。こちらの態度を見て、子供扱いすることをやめたのだ。処罰を下す権限を持った大人が仕事をするときの、極めて事務的な態度で、カウフマンは告げる。


「君たちのデザイン生物の件だが、現時刻をもって研究を中止してもらうことになる」


 一時の猶予も与えられない研究の即時中止。想像以上に厳しい話だった。


「それは処罰ですか。僕らの創っている《パラサイト》がいったいなんの決まり事に抵触したのですか」


 フランクが腰を浮かせて声を荒げた。これでは相手の譲歩も引き出せない。だからジミーは割って入った。《パラサイト》の問題であれば、遺伝子デザインを担当している立場から理性的に話を進めた方が良い。


「《パラサイト》は環境漏出した場合でも自動で死滅するようにデザインしています。それは保証します。あくまで閉鎖的な環境下での研究が目的で、僕らは《パラサイト》を使って何か社会に影響を及ぼすつもりもない」


 ジミーは研究室という限られた空間でしか使うつもりが無いと強調した。デザイン生物の研究が処罰を受ける場合、社会や環境への影響が無視できないからというケースが多い。だから、それには触れないとアピールする。


「君たちの創る《パラサイト》自体に違反は無いよ。ガイドラインや他の法規に照らし合わせても問題の無い範囲だ。研究目的も社会の発展に資するもので素晴らしい」

「では何をもって、研究を中止にしなければいけないのですか」


 強い権限の行使にはそれなりの根拠が必要になる。そこが核心だ。それを明らかにしないと交渉の糸口も見いだせない。


「君たちには、政府に伝えていない別の思惑があるだろう」


 一瞬、息が止まった。フランクとジミーが研究している本来の目的についても、すでに承知だという口ぶりだった。


「ここでそれを問いただすつもりは無いよ。だから政府として、君達に研究の中止を要請するに至った経緯を話そう」


 カウフマンは表情を崩さないで話を続ける。フランクとジミーの、人間を怪物に作り替える生物を創り出すという本当の企みについてはどうでも良いという態度だった。

 問題は、もう手の届かないところに来てしまっている気がした。冷や汗が噴き出る。抵抗しようにも、勝負すら成立しない雰囲気だ。カウフマンには交渉するつもりなんて全くない。ただ、粛々と事実を告げに来たのだ。

 肝心のフランクも両こぶしを強く握りしめて押し黙ったままだった。


「遺伝子デザインに使うナノロボットや支援AIは監視下にあり、さらにその情報も政府に回収されていることは知っているね」


 ジミーは黙ってうなずくのがやっとだった。遺伝子デザインに携わる人間ならだれもが知っている常識である。


「これには二つの意味がある。一つは監視のためだ。決まり事をしっかり守っているか、社会秩序を乱すような目的に使っていないかを監視する。そしてもう一つだが、社会のニーズを把握するためだ。人々が遺伝子デザインに何を求めているのかを把握し、《ビーグル》に取り込むことで新たな技術開発につなげる狙いがある」


 《ビーグル》をはじめとして、世界中の超高度AIはネットワークを通じた外部との接続が絶たれている。人の知能を超えた道具たちが、勝手に悪さをしないための措置だ。

 しかし完全に外部の情報を遮断すると、超高度AIでも、社会のニーズを読み違えて、今の人間たちには意味の無い計算結果を吐き出したり、使い道のない技術を開発してしまう。だから運用する人間が、限定された情報を超高度AIに定期的に渡して計算の方向性を誘導するのだ。《ビーグル》の場合は遺伝子デザインに関するデータが該当する。遺伝子材料アセットアーカイブのアクセスログや、ナノロボットや支援AIの動作ログなどが対象だ。


「君たちのデザインした《パラサイト》の情報を《ビーグル》が取り込んだ結果、君たちの創っている《パラサイト》の機能は、《ビーグル》の創ったある人類未踏産物レッド・ボックスに酷似していることが分かった」

「《ビーグル》の人類未踏産物レッド・ボックスですか」


 人類未踏産物レッド・ボックスとは、超高度AIが創り出す、今の人類には再現できない超高度技術の産物だ。この国では《ビーグル》の遺伝子デザイン用ナノロボットがその代表格だろう。社会に与える影響も大きく、その運用には強い制限が掛けられていることが多い。


「詳しくは言えないが。それの機能は体細胞を多能性幹細胞に初期化し、新たに分化を誘導することによって、人間の身体を作り替えることだ。政府の一部の組織で、それは管理されて、実際に運用されている。君たちは、それに近い機能を持った生物をデザインしてしまった」


 《パラサイト》と政府が運用している人類未踏産物レッド・ボックスの機能が似ているなんてジミーとフランクも想定していない。そもそも、人間を作り替える生物なんて社会的にも許容される訳がないことを承知で始めたことなのだ。政府がそんな機能をもつ人類未踏産物レッド・ボックスを実際に運用しているという話自体が、驚きだった。

 カウフマンは偶然という部分をあからさまに強調していた。遺伝子デザイン上の特徴と、フランクとジミーが政府に回答した書類上では、《パラサイト》の機能は遺伝子を取り込む機能だけしか持たないことになっている。

 《パラサイト》が怪物を創り出すなど、おおやけには誰も承知していないことなのだ。

 人間を怪物に作り替える生物の作製というフランクとジミーの本当の意図を政府が認知すると、フランクとジミーだけでなく学校まで厳しい処罰を課すことになる。

 だから、政府は全てを知ったうえで、フランクとジミーを追及しないことに決めたという話だった。


「君たちの研究は、人類には再現できないとされている人類未踏産物レッド・ボックスの解析に寄与するものだ。すまないが、そんな研究を、君たちだけだけでやらせる訳にはいかないんだ。人類未踏産物レッド・ボックスは国家の財産で、その情報を他国に漏らす訳にはいかない。だから政府の厳格な管理のもと研究を進めていくことになる。これは処罰ではないけど、国の財産でもある遺伝子情報の漏出を防ぐ、特殊防疫に絡んだ情報封鎖措置の一環だ。遺伝子監督官の権限のもと、強制的に執行させてもらう」


 その代わりがこれだった。人間を怪物を作り替える生物を創り出そうと企んだフランクとジミーに処罰は無い。けれど、代償は差し出さなくてならなかった。


「そんな理屈で、僕らの研究を政府が取り上げるのですか」


 フランクが絞り出すように声を出した。いつもの陽気な彼には似合わないか細い声だった。二人でこの研究をやりたいとこだわったのはフランクだ。不満でも従う以外に選択肢は無いのは明白だった。

 けれども、抵抗しないことが良いなんて思わない。弱気なフランクなんて、ジミーは見ていたくなかった。

 親友が苦境に立たされたなら、それを支えなくてどうするというのだろう。


「《パラサイト》の研究には、まだ形にはしていないアイデアがいくつもあります。社会的な禁忌に触れるかもしれないと躊躇ったものです。それは、僕ら二人でないと形に出来ないものだ。僕らがいないと、人類未踏産物に、いや《ビーグル》に迫ることなど不可能だ」


 ハッタリだった。《パラサイト》に関する研究資料は研究室に置いてあるものが全てで、フランクとジミーのアイデアもそれ以上は存在しない。ばれる訳にはいかないものだからこそ、二人だけの研究室に全て注ぎ込んでいたのだ。

 だからこそ、この研究だけは何としてもやり遂げたかった。政府にただ取り上げられるだけなんて納得がいかなかった。ここで喰らいつかないと、一生後悔すると思った。


「はっきり言いましょう。研究データを《ビーグル》に渡さないと《パラサイト》の本質に気づかないような政府の人間なんて、僕らの大事な研究を預けるには信用できない」


 フランクがこちらを驚いたように見つめていた。ジミー自身も、こんな強気な発言をするなんて思ってもみなかった。

 フランクに影響されたのだろう。彼の存在はジミーにとって大きく、二人で研究に打ち込んだ日々はかけがえのないものだった。

 それを失いたくないと、ジミーは心の底から思っている。


「わかったよ。政府の研究チームには、君たちも中心メンバーとして参加してもらうように話をつけるよ。政府は君たちの能力を高く評価しているからね」


 カウフマンが嬉しそうに笑った。もしかしたら、初めからフランクとジミーを研究チームに招くつもりがあったのかもしれない。

 けれども、こちらの意思を示すことは重要だと思った。今後のことも考えると弱気ではいられないし、全てが思い通りに運ぶと思われるのもしゃくだった。

 ジミーはフランクの肩を抱いた。弱気になった彼を勇気づけたかった


「僕らの研究は終わらせないよ。最初は3か月だけ付き合うと言ったけど、気が変わった。僕は君と一緒に世界を変えるような研究成果を残したいんだ。ひとりじゃ駄目なんだ。二人で、歴史に名を刻みたいんだ」

  


 

 フランクとジミーは応接室から、研究室になっている小屋の前にカウフマンと一緒に移動した。

 研究室はすでに保健省の職員によって封鎖されていた。ジミーとフランクは中に入れてもらえない。

 《パラサイト》を飼育していた恒温庫や薬品棚が、研究室に横づけされた政府の車両に運び込まれていく。研究データの詰まった端末や、書類の類、DNAのデザイン模型まで根こそぎ回収されている。

 応接室に呼び出されたのは、政府による立ち入りをスムーズに行うためだったのだろう。合意のもと行われるのではなく、強制的な措置だから、こんな騙し討ちのようなことさえもする。

 それくらい、遺伝子監督官の措置というのは重いものだ。近年この国は《ビーグル》の技術の恩恵で発展した側面がある。遺伝子に関する技術と情報は、カウフマンが言ったとおり国家のかけがえのない財産で、国を維持する重要な生命線だ。


「ジミー、君はこれを納得できるのか。俺たちの研究室が、ここで終わってしまうかもしれないんだぞ」


 フランクとジミーの研究室は無期限の閉鎖を言い渡された。政府に《パラサイト》をはじめとする材料も、設備も根こそぎ持ってかれる。それだけでなく、研究室の閉鎖に伴い、《ビーグル》のナノロボットの使用権限さえ取り上げられた。

 ここで研究を続けることは不可能だ。けれど、終わりではないはずだった。


「フランク、場所は重要じゃないさ。僕にとっては、君がいることが一番大切ななことなんだよ」


 《パラサイト》の研究は、政府の管理のもと続けていける。政府が用意するここよりずっと良い施設で、二人だけでなく大勢の人間との関わっていくのだろう。

 ジミーにとっては、フランクがいれば十分だった。だから受け入れられる。フランクにも、そう思って欲しかった。


「嬉しいよ。ジミー、君の存在は俺にとってかけがえのないものだ。けれど違うんだ。俺には研究室が必要だったんだ。あそこじゃなきゃ駄目だったんだ」


 だが、フランクの表情は晴れなかった。ジミーの言葉に少し笑ったかと思えば、すぐに苦しそうに眉を寄せてうつむく。


「場所は変わってしまうけど研究は続けられるんだ。君と一緒に目指した、道具によって制限された世界から、人類の手で扱える領域が増やせることを証明するという願いは果たせるんだ。あの研究室に、どうしてそこまでこだわるんだ」


 研究は続けられる。《パラサイト》の研究を通して、超高度AI《ビーグル》の創った人類未踏産物レッドボックスの解明に繫げることは、道具が主導権を握る領域から人類の手で扱えるものにすることと同義のはずだった。

 だがフランクは、それを受け入れられないと言っている。

 もしかしたらフランクには、ジミーにさえ言っていない別の目的があるのではないかという疑念が浮かんだ。フランクはときおり、ジミーには理解できないこだわりを見せるからだ。


「すまない。ちょっと気分が悪いんだ。ここはまかせても良いかい」


 ジミーの疑問にフランクは言葉を濁した。けれど、それを追及する気にはなれなかった。あの研究室を立ち上げたのも、人間を怪物に作り替える生物を創ろうと言い出したのもフランクだ。研究室や研究そのものに対する思い入れだって、ジミーより強いのもわかる。

 いつもの彼らしい覇気も無かった。わずかな間に色々なことがあって疲弊しているのかもしれない。

 受け入れるには、時間が必要なのだろう。ジミーはうなずくと、後でまた話そうと声をかけるだけにした。フランクに感じた疑念も、そこで明らかにすればいい。

 話し合えば、今まで通りに、二人で研究を続けられるのだと思った。


「君たちは、本当に良い関係を結んでいるようだね。そんな君たちに、私から一つ、元気が出るような話をしてあげよう。最初に言ったけど私は、君たちに会えることを、本当に光栄だと思っていたんだ。保健省どころか、政府の要人の間でも君たちの話題で持ち切りだ。理由を知りたくないかい」


 フランクが去ると、カウフマンが話しかけてきた。今さら、好意的な態度など取れないから、ジミーの口からは皮肉が出てくる。


「僕らが、無謀な挑戦をしようとしたんで、笑いものにでもなっているんですか」


 フランクとジミーの本来の目的が知られているなら、それが話のタネになっているのだと思った。人間を怪物に作り替える生物を創るなんて、既存の社会の在り方を守る立場の大人たちには笑われて当然だった。


「とんでもない。政府の研究に携わった経験もなく、独自に人類未踏産物レッド・ボックスに迫った君たちの頭脳に感嘆しても、嘲笑おうなんて人間はいないさ」


 カウフマンは大げさな動作で両手を振って否定する。演技じみていて気味が悪かった。だが、続く言葉はジミーにとっては衝撃だった。


「《ビーグル》が、君たちに興味を持っている。あの超高度AIはね、君たちとの対話を望んでいるんだ」


 遺伝子を通して生物の在り方をつまびらかにした、人類知を超えた超高度AI《ビーグル》。それに興味を持たれているというのは、研究者としては大きな意味を持つ。


「《ビーグル》は、表には出さないけど不満を抱えている。《ビーグル》の開発する技術のほとんどが、今の政府には手に余るもので、まともに使いこなせていない。せいぜい封印措置をほどこして、いつか人類が受け入れられる時代が到来するのを待つだけだ。《ビーグル》にとっては、計算結果をそもそも使ってもらえず、実際の社会で使った結果もフィードバックさせてもらえない。人類に最大限に貢献するように設計された超高度な計算機にとって、その状況はストレスなんだ」


 例え、既存の概念を覆す技術を創り出しても、使用者側が望まなければ使われない。いわば需要と供給のミスマッチの話だ。遺伝子デザインにかけられた多くの制約と繋がるところがある。


「だから《ビーグル》は、既存の人類の社会常識を先にシフトすることのできる人間を待ち望んでいる。自分に追いつき、自分を最大限使いこなしてくれる人間が、あいつは大好きなんだ」


 遺伝子デザインという技術の制約だけでなく、そもそもの社会の在り方が《ビーグル》にとっては物足りないのだろう。

 既存の社会とミスマッチを起こすから、技術が使われないというのなら、社会の方を変革すればい良い。《ビーグル》は現状に満足せずに、先に進もうとする人間を望んでいる。

 図らずも、フランクとジミーが目指した、既存の社会が決める枠組みへの挑戦が、《ビーグル》の目に留まったのだ。


「《ビーグル》が求める新時代の人間が、僕たちという訳ですか」


 限定的にしか外部との接続が許されない《ビーグル》にとって、同じヴィジョンを見ることができる資質を持っている人間の存在は大きい。


「さすがに何の実績もなく、政府の管理下にないに人間を《ビーグル》に会わせることは出来ないからね。君たちはこれから、どんどん成果を出してほしいんだ。もちろん、政府としても支援する。そして《ビーグル》と対話をして、彼の力を存分に発揮するようにして欲しい」

「既存の社会どころか、世界に喧嘩を売ることになる怪物を生み出すかもしれませんよ」


 フランクとジミーは怪物を生み出す《パラサイト》を創ろうとした。その思想が《ビーグル》に近しいものだといというのなら、《ビーグル》は人間の在り方さえも捻じ曲げようと考えていても不思議ではない。

 誰もが“wanna beなりたい”自分になれるときがくるのなら、そこに今の人間の“かたち”は無いように思えた。フランケンシュタインの怪物も、おとぎ話の妖精だってそこにはいる。みんな、今の自分とは違う何者かに“wanna beなりたい”願望を抱えている。

 そんな在り方が世界に受け入れるのだろうか。ジミーには想像が追いつかない。


「望むところだよ。我が国は、他国を征服しその版図を広げて大国として名を馳せた歴史もある。《ビーグル》を要するこのイギリスが、世界に新たな人類の在り方を示すのも悪くはない」


 そう言ってカウフマンは悪戯っぽく笑った。いい歳の大人がしないような、子供じみた笑顔だった。

 その後ろに《ビーグル》が笑っているのを見た気がした。政府のもとで研究を続けることが、悪魔との取引のように思えた。

 背筋が冷えた。けれど、ジミーにはフランクと一緒に研究を続けたいから、悪魔との取引だろうが乗るしかない。

 フランクと話をしたかった。二人で研究に打ち込んだ充実した日々を今すぐに取り戻したい気分だった。




 だが、フランクと話し合える機会はしばらく訪れなかった。

 寮の部屋を訪ねてもフランクは出てこなかった。学校で見かけても、フランクはジミーを避けるように理由をつけて足早に去ってしまう。

 明らかに避けられていた。閉鎖された研究室の前で、思いつめたようにたたずむフランクを見かけたこともあった。

 フランクとジミーはDNAの二重らせんのように相補的だった。けれども今は、それが解きほぐされて、一本だけで頼りなく漂っている。

 二人なら何でも出来る。そう思っていたのに、ひとりひとり別の存在だと突き付けられると、不安でたまらなかった。

  



 そして、フランクは食堂で倒れて病院に運ばれた。研究室の閉鎖から一週間が過ぎた日の朝のことだった。

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