第1話:とある所持者のお仕事
一人の男が走っている。
立派に肥えたその男の姿は、『悪どい』ことをして裏で私腹を肥やす小金持ちの典型的な姿だった。
決して綺麗な太り方をしているわけではなく、ただ毎日を怠惰に過ごした結果がそのまま脂肪となってついたであろう姿。
肥えた男の汗の量は酷く、服は全面汗で色が変色している。
男がこれまで死に物狂いでかなりの距離を走ってきたことを物語っていた。
この疾走を終えれば間違いなく何キロかは痩せているだろう。
しかしそれは、生き抜ければ、の話だ。
必死に逃げるその男の後ろには、チャンパオと呼ばれる黒い中国服をガウン風に着た細身の男が、ゆっくりと一定の距離を保って追いかけてきている。
その表情はつば付きの帽子に隠れてみることはできない。
男の背後には、遠くからでもはっきりとわかるほど赤い紅蓮の炎に身を焼かれた屋敷があった。
肥えた男の夢と欲望が詰まった屋敷だ。
「来るな! 来るなぁぁぁっ!」
汗まみれの男は汗なのか涎なのかもわからない液を飛び散らしながら叫び、男から必死に逃げる。
(……殺し屋……っ! しかも、並みの殺し屋じゃない!……誰なんだあの男はっ!)
真夜中。
月明かりしかない森の中を走りながら、男はなぜ自分が狙われるかよりも、自分を追いかける『殺し屋』が誰なのか考えていた。
『裏』の世界に身をおいているのだ。護身のために殺し屋達を雇い身辺を警備させている。
甘い警備ではないと自負していたし、その為にかなりの金額を積んでいたのも確かだ。過去にはD級とは言え、殺人許可証所持者さえ諦めたことのある警備だ。
中には裏でも名の通った用心棒もいた。
しかし、その用心棒は今では自分の周りには誰一人いない。男の財力で甘い汁を吸いつつ、共に裏の世界を駆けまわった仲間も、今は傍にいない。
つい先日人身売買により購入したお気に入りのおもちゃもいないければ、使い古して今は自分の加虐心を満たすだけの道具と化したおもちゃもいない。
全て、炎に焼かれた自分の屋敷の中。
自分の『全て』があの屋敷の中にあった。
「高い金を払って、この様かっ! 使えもしな――ぐぇっ」
あらゆる物を飛び散らしながら走り続けていた男の足に激痛が走る。
痛みを感じた直後には男の目の前に地面が迫ってきていた。地面が、ではなく、自分がこけたのだと気づいた時には地面に勢いよく倒れていた。
「……はあはあ……っ!」
痛みに苦しみながらも背後を見る。
いつの間にか、自分を追いかけているはずの男はいなくなっていた。
「はっ、はあはあ、はっはっ」
顔を歪めながら息を整えようとするが、足の痛みに儘ならない。やがて咳き込み始めるが気持ち悪くなったのか、それとも倒れたときに足以外も痛めたのか、汗で変色したスーツに嘔吐した。
「げほ……はあはあ……」
すっと、男の目の前に場違いなハンカチが差し出された。
「大丈夫、か?」
そのハンカチを乱暴に奪い取り口を拭こうと当てたが、一瞬の間が空いた後、恐怖に男の顔が歪んだ。
先ほどまで、自分を追っていた中国服の男が目の前にいたのだ。
ずりずりと後ずさり男から離れようとしながら、どうやってこの場を切り抜けれるのか必死に考える。考えるが、出てくる言葉はただ「あ……」といった恐怖に塗りつぶされた言葉だけが唾液や口に残った嘔吐物と共に出るのみだった。
そんな肥えた男を中国服の男は呆れたように見つめ――
――自分の標的を冷ややかに見つめ、宣告する。
「……お前は法を犯した。よって――」
ひゅんひゅんっと細く鋭利なものが辺りを飛び交う音と、その音が残す煌の閃光が、男の最後に見聞きしたものだった。
「――……
男の生死を確認することもなく、ナノと名乗った男は背を向ける。
ナノの背後でひしゃげるような音がして、鮮血が飛び散った。
月の光を反射して赤い光を残す細い閃光が、纏わりつくように、赤の光から銀色の光へと戻りながらナノの両手に軌跡を描いて消えていく。
男の姿が見えなくなるまで歩いた後、ナノは立ち止まって空を見上げた。
「……面倒な仕事。……こんな仕事、受けてどうする、俺……」
ナノの頭上に広がる空。
暗闇の中、疎らに光る星が見える。星の数は少ない。
「なんだかなぁ……ほんと、くだらねぇよ……」
星空は、目的もなくただ人を殺すだけに終わった任務のくだらなさに呆れるナノの心を、癒すように光り続けていた。
・・
・・・
・・・・
殺人許可証はD級から始まり、上級ランクのB級、A級、最上級ランクのS級までに分かれている。
ランクが上がっていくにつれて、『仕事』――暗殺から、古代の遺跡の発掘・調査・その護衛までの殺人許可証所持者が行う幅広い活動のことを、まとめて『仕事』と呼ぶ――その死亡確率、難易度は容易なものではなくなっていく。
逆に、ランクが上がると、個人的、自由な殺しの制限は皆無に近づいていく。
殺人の制限がなくなるということはないが、S級殺人許可証まで上り詰めることが出来れば、一つの県に住む住民を何の考えもなく排除しても咎められることはない。
それほどの力という権力を持つこともあり、S級殺人許可証の取得は人生の半生以上をかけても難しく、過去、S級まで上り詰めた人間は、数えるほどしか存在していない。
『
コードネーム:ナノ。
ナノの持つ殺人許可証は、高天原特殊暗部だけが持つことの許される許可証である。
所持者・殺人制限・仕事――裏世界最高のセキュリティと、雑事から仕事まで『表』『裏』の様々な情報を得ることのできる許可証所持者専用ホームコード『
高天原上層部の一部の人間と、そこに辿り着いた所持者だけが知る許可証である。
最も、例外はある。
例えば、高天原の最高権力者『
世界は。SS級というランクは、最高権力者に与えられる、または大々的に世界さえも救って見せた勇者ともいえる存在のみに与えられる称号、とさえ思っていた。
そのような、世界に知られるべき存在以外は――SS級殺人許可証所持者の存在は公開されないはずだった。
しかし、
『
その『
『誰か』が存在を知ったのか、それとも彼自身が、故意に漏らしたのか。
いつからか『彼』だけは許可証所持者内や裏世界に生きる者たちの記憶の中に存在していた。
『見た者おらず。
見た者全て『永遠』を奏で。
まるで亡霊のような殺し屋』
『『名』も無き『畏怖』を司る
二つ影の『死神』』
彼は、『噂』と『畏怖』として、裏世界で存在していた。
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