帰り道の迷子たち

目箒

終電待ちの6人

 11月の寒い日だった。雪が降るのではないかと言うくらい寒い。裏地付きとは言え、そろそろベージュのトレンチコートはやめるべきか。新藤卯月うづきはマフラーを巻き直して、その内側に暖かさが満ちるのを待つ。今日はツイてない。先輩が有給休暇を使った日に限って面倒な案件が回されて残業する羽目になった。これくらいならまだ良い。誰にでもある。入社するときにも説明されていたことだし残業届はちゃんと書いた。だが、問題は帰り道だった。電車が遅延していたのである。どうやら機械トラブルらしい。これだけ寒ければ電車も調子を崩すのだろう。

 電車に乗る時間よりもホームで待つ時間の方が確実に長かった。やっと来た電車は満員電車で、乗り込むのには勇気が必要だった。詰め込まれて、疲れ果てた乗客たちの顔がこちらを見る。待っていた全員が同じことを考えていたようで、数本の電車が停車したが、待つ人数は減らなかった。ようやくスペースの空いた電車がやってきて、新藤もそれに乗り込んだ。

 そうしてやっと、最寄りの地下鉄の駅に着いた頃には、終電を残した時間になっていた。そこで彼女は終電の存在を思い出した。待っていれば無限に電車が来るわけではないのである。電車の予定が流れる電光掲示板には、予定時刻と行き先の駅と終電の文字が煌々と輝いている。新藤が立っているのは1番線には他に4人客がいたが、反対側の2番線には誰もいなかった。

 腕時計を見ると、23時51分。終電の予定は23時55分だった。もう少しで帰れる。ベンチには、バッグを抱えてうとうとと船を漕いでいる年配の女性と、同じく年配で、本を読んでいるスーツの男性が座っている。壁にもたれかかっているのは新藤より年上だが若く見える男性だ。先ほど、トイレから女子高生らしき少女が出てきた時には驚いた。バイト帰りだろうか?ホームを少し歩けば駅員室があるような小さな駅だが、この時間にもこれだけ利用者がいるらしい。

 スマートフォンでネットサーフィンをしながら、インターネットの調子が悪いことに顔をしかめる。サーバーが混み合っているのだろうか。夜更かしだなぁ。こっちは寝たくても寝られないって言うのに。新藤は苦笑しながら読み込みを待った。画面の上で、時計が23時55分に変わるのを見て、顔を上げる。電車が来る気配はない。遅延だろうか?電光掲示板を見ても、遅延の情報は流れて来ない。相変わらず、予定時刻と行き先、終電の文字が光っているだけだ。

 ふっとスマートフォンに目を落とすと、「サーバーに接続できませんでした」のエラーメッセージが出ている。大人しく待てと言うことだろうか。新藤はコートのポケットにスマートフォンをしまうと、電車が来るのを待つ。かなり待ったような気がして腕時計を見るが、23時57分だった。なんとなく日付が変わる瞬間に外にいるのが後ろめたい。実家で暮らしている新藤は、会社からの電車が遅延していた時点で母親に遅くなる旨を伝えている。でももう一度連絡した方が良いかもしれない。そう思ってスマートフォンを出したが圏外だった。おかしいな。いつもここのホームだとネットも電話も使えるのに。地上に出て連絡して、その間に電車が来ても困る。新藤は腕を組んで電車を待った。壁にもたれていた青年が、新藤に背中を向けてホームを歩いて行く。「すみませーん」と呼びかけているのが聞こえた。見ると、彼は駅員室の窓に顔を突っ込んで駅員を呼んでいる。しかし、誰かが出てくる様子はない。

「すみませーん」

「駅員さんいないんですかねぇ」

 新藤に並んで、紺色のダッフルコートを着た少女が独り言の様に呟く。焦げ茶の髪の毛は地毛だろうか染めだろうか。新藤は首を傾げて、

「それはないと思いますけど…具合悪いとか?」

「やだ」

「行ってみます?」

「行ってみます」

 どちらともなく歩き出す。青年はまだ駅員室の中に向かって呼びかけていた。

「誰かいないんですかー?」

「具合が悪いのかも」

 後ろから新藤が呼びかけると、青年は振り返った。短い髪にはところどころ白髪が混じっている。それとは対照的にどこかあどけない顔をしていた。丸い瞳が新藤と少女を見る。

「入って良いと思います?」

「具合悪かったら危ないし……呼んでも出てこないからしょうがないって言うか…」

 少女が言うと、青年はふむと考え込んで、「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたドアのノブに手を掛けた。その下に番号式のロックがついていたが、今はかかっていないようで、すんなりと開く。彼はまた「すみませーん」と良いながら中に入って行く。新藤と少女は顔を見合わせて、後に続いた。ついさっきまで業務をしていたような、雑然とした机。電子マネーの精算をするための機械も、パソコンも稼働していた。ペットボトルの緑茶が置いてある。半分ほど残っているようだ。

 新藤と少女が人の姿を探していると、やがて奥から先ほどの青年が戻って来る。彼は首を横に振った。

「誰もいないですね」

「マジで?」

「マジです」

 少女が目を見開いて聞き直すと、彼も同じ言葉を使って返す。「でも、さっきまで人がいた感じの雰囲気ですよね」

「お茶も残ってるし。置いてったのかもしれないですけど」

「でもパソコンは切っていきますよね?」

 新藤が、今日疲れ果ててパソコンをシャットダウンした時のことを思い出しながら言うと、青年が首を傾げた。

「いや、駅員さんも夜勤あると思うんでパソコンは…あー、でも始発までは切るのかな?どっちにしろ誰もいないっていうのはおかしい」

「お腹痛いとか?」

 少女が言う。彼は首を横に振った。

「俺、ずっと待ってたけど誰も駅員室から出てこなかったよ」

「私も」

「ずっとこもってるのかも」

「なくもないか」

 青年は頷いた。「ちょっとトイレ見てみよう」

 3人が駅員室から出て、男子トイレに向かう。新藤と少女を残して青年がトイレに入る。個室を覗いているのか、ごとごとと音が聞こえた。しかし、誰もいなかったようで、青年はすぐにトイレから出てきた。

「やっぱり誰もいない」

「やだ」

 少女が笑おうとして失敗したような顔になる。新藤も不気味さを覚え始めていた。「電車まだ来てないですよね?」

「来てないですよ」

 ベンチから、年配の男性がそれに返事をした。「そういえば来ませんね」

 その言葉に、新藤と青年は腕時計を、少女はスマートフォンを見た。0時15分。

「そうか、駅員さんがいないと遅延しててもおしらせが流れないのか」

「いつ来るかもわからないってことですかぁ?」

「駅員室のパソコンでわかるかも。勝手に触って良いのかわかんないけど…」

「でも駅員さんいないし」

「いないんですか?」

 男性が驚いた様に目を丸くする。

「ちょっと覗いたんですけど、誰もいなかったですね」

「反対ホームの駅員室にも?」

「あ、そっち見てなかった」

「あの、ちょっとあたし、地上行ってきて良いですか?親に電話しないと」

 そこで少女がスマートフォンを軽く持ち上げる。不安そうな顔をしていた。

「ああ、良いよ。あ、待って俺もついてく。いくら駅前でも夜中だし…」

「えーと、大丈夫ですすぐだから…」

「あ、うん…ごめん…電車来たら呼ぶね」

「すみません」

 そう言うと、紺色のダッフルコートを着た少女はローファーを鳴らして駅員室前の改札を出て行った。青年は気遣わしげにそちらを見ていたが、やがて肩を竦めた。

「大丈夫かな。この時間の電車乗り慣れてる風だったけど、高校生でしょ?」

「ちょっと心配ですよねぇ」

「まあ知らない男と表出るのも怖いとは思うけど」

 青年は苦笑する。彼は心の底から善意で少女の心配をしているのだろうとは思うが、おそらく新藤でも彼の同行は断るだろう。夜中に知らない男と2人になるというのは、女性なら誰でも避けたいシチュエーションだ。

「じゃあ、私見てきましょうか」

「え、良いんですか?」

「私も心配だし。電車来たら教えてください」

「もちろん。お願いします」

 新藤は頷くと、少女の後を追い掛けて改札を出た。が、そこで向こうから彼女が誰かと一緒にこちらに戻ってくるのが見えて足を止める。

「電話できました?」

 彼女は首を横に振った。その顔は曇っている。少女は新藤に近づくと、困ったような顔で言った。

「シャッターが閉まってたんです」

「えっ」

「本当に。で、この子がいて…」

 学ランを着た少年だった。青いエナメルバッグをたすき掛けにしている。「ぼーっとしてたから、連れてきちゃったんですけど」

「ずっとそこにいたの?」

「うん…」

 新藤の問いに少年が頷く。「どうしたら良いかわかんなくて」

「そっか…とりあえず、ホームに他の人もいるから一緒に来る?」

「うん」

 少年が再び頷くと。新藤は来たばかりの改札を戻った。駅員室の中をちらりと覗くが、やはり人の気配はしなかった。

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