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 人が死んだのかと思うと、それだけで気後れがする。自分が言い出したことである手前取っ手を握ったが、なかなか引くことが出来なかった。しかし後方の三人も、それに関しては何一つ文句を垂れなかった。誰だって、友人の遺体を見るのには覚悟が要る。ましてや彼女の小さな顔は、胴体と繋がっていないのだ。


 ちょっとした通路を挟んで奥にベッドがある。そこに、依然変わらず鷲見桃子の遺体があるのが見えた。記憶と寸分も違わない。

 俺はまずユニットバスのほうを覗く。なぜといえば、床に点々とそちらへ続く血の染みがあったからだ。

 そこはホールの臭いがまだ軽いほうだと思わせるには十分な臭気が満ちていた。浴槽に水が溜められ、そこに物置で見た手斧が沈んでいた。水は真紅と言っていい色合いで、何割が水道水かわかったものではない。


「ここで切り離したのか? 手斧……、おあつらえ向きだな」


 後ろから覗いてきたのは竹本浩二である。丸眼鏡をあえてずらして直視しないようにしているのか、それとも緊迫感でずれていることにすら気付いていないのか、彼はいたって真面目な顔をして聞いてきた。


「どうだろうな。ベッドで殺して、それからこの風呂場まで引きずって頭部を切断し、身体だけをベッドに戻す。労力も時間も要する無駄な行為に思えるけど」

「ここで殺したってこともなさそうだしな。そうだとしても同じように、身体だけをベッドに移動させる必要がわからない」


 朝野保彦と上田亜里沙はまだ部屋の中に入っていなかった。二人して顔を歪め、どうしてお前らはそう易々と入っていけるんだと責め立てているかのようである。俺は義務感からこうしているが、竹本浩二のほうはきっとミステリ好きの持ち合わせる好奇心なのではなかろうか。同じにされるのは少々しゃくに障る。


 なるべく臭いを深く吸わないように手をマスクの代わりに仕立て部屋の奥へ進む。竹本浩二はまだ浴槽を眺めていた。


 遺体は頭部がなく、腹部は引き裂かれ内蔵が出ている。それは無造作に引っ掻き回され乱雑になって、完成したジグソーパズルを枠から落としてしまったかのような不快感がある。ベッドの上はほとんど全て血塗れていると言っていいくらいに真っ赤だ。


 なるべく遺体のほうへ視線を向けないようにして、化粧台の下、ベッドの下、テレビの裏といった、物が隠れそうなスペースを確認していく。


 朝野保彦もようやく覚悟が決まったのか、一心に部屋の中まで歩いてくると同じようにして方々へ視線を向けていたが、

「ないね」

 ほとんど安堵のような声を出した。

「ああ、ないみたいだな」


 鷲見桃子の頭部は見つからなかった。


 ホールのほうを振り返ると、上田亜里沙は結局その場にへたり込んでしまったらしく、俯いて口元を押さえている。

「どうだ」

 竹本浩二が風呂場のほうから顔を覗かせる。

「この部屋にはないらしい」

「ない? そんなわけないだろ」


「どうして? ほかにも隠せるスペースはあるだろ。この部屋でなければならない理由なんてないんだから。それこそ隣の空き部屋とか、いかにもありそうじゃないか」

「いや、考えにくいな」昭和風情の男が妙に味のある仕草で眼鏡を押し上げる。浴槽の血の臭いにてられてすっかり探偵気分に浸っているのかもしれない。「だって、恐らく切断現場であろう風呂場までは血の滴りなんて全く気にしていなかった犯人が、この部屋から持ち出すときだけ注意して垂らさないように、もしくはどこかに運んだ後戻ってきてホールの血痕を全部ふき取って隠滅したなんて、考えにくくないか」


「いや、どうだろうな」反論を試みる。「この部屋が殺害、切断の現場なのは誰がどう見たって歴然としてるが、頭部はどうしても見つけてほしくなかったから、慎重を期して運び出した後に全部拭い去ったかもしれない」

 ふうむ、と唸る間があった。


 視線をずらしてみると、

「どうにもそういった計画的なと言うか、意図のあるようなタイプには見えないけどな」朝野保彦もだいぶ復帰して来たらしく、普段の調子に戻りつつある。頭部が見つからなかったために気持ちが落ち着いてきたのかもしれない。人間、良くも悪くもいずれは慣れるものだ。この場合、麻痺とも言い換えられるが。「大体、どうしても頭部を見つけてほしくない理由ってなによって」


「また保彦は理由か」竹本浩二が呆れたようにため息を漏らす。「理由なんてないんだよ、頭を切り離したのはただの気まぐれ、俺たちには理解しようにも出来ない奇行だった。だからこそ、ここから持ち出す必要がないんだ。わざわざ血を拭っていく必要が。綿密性を極めるならここまで現場が杜撰ずさんだとは思われにくい。外に運び出したとすると、行動に一貫性がないんだよ」


「確かにそこまでして頭を運んでいく必要は今のところないと僕も思ってるよ。はじめがそういう方向に持っていこうとしたように思ったから言ったまでで」

「今のところも何も、そもそもないんだって」


「悪かった、俺が悪かったな」同じ方向性の自論を展開させているにも関わらず二人はやはり何かと口論に発展してしまいそうで、見ていてひやひやする。昨日のこともあって、もはやこれを遊びとは呼べまい。「でもこの部屋にないのは事実だろ。ベッドの下も化粧台の下も見た。後どこに隠せるって言うんだ?」


「まあ、それもそうなんだよな……」竹本浩二が顎に手をやり視線を彷徨わせる。天井を見、床を見、ホールのほうを振り返り、そして視線を俺のほうに向け、「あれ?」


「どうした?」まさかまたお前がやったんじゃないのかなどと言われそうな気配がして、妙な焦りを感じる。「なんだ?」

「そこ、シャッター」そう言って、俺の背後に隠れていたらしいあの四角い穴のほうを指差す。「何で閉めてあるんだ?」

 そんなことか。

「何でって、雨が降ってるからだろ」


「いや確かに降ってたみたいだけど、俺の部屋ではシャッターなんかしなくても音なんて全然聞こえなかったぞ。さっき正樹が出て行くときに気付いたくらいだ」そして顎をさする手の動きが少し早くなる。「もしかして」


「いやいや、入らないだろ」俺は一笑に付した。「桃子の頭は確かに小さかったけど、そこには無理だろ」

「そうか? でもそこ、血が付いてるのも確かだよな」

 壁の穴の周囲には確かに血痕が複数認められる。


「血飛沫じゃないのか?」

「確かめる価値はある」

「まさか。どう見積もっても桃子の頭部が二十センチ以下だったとは思えない」

「そうだね」朝野保彦が補強してくれる。「肩のところから切断されているってことは、鎖骨の辺りから頭頂部まででしょ。そのままでは入らないと思う」


「含みのある言い方だな」俺はへらへらとしたまま彼のほうを見た。「何が言いたい?」

「僕、わかっちゃったみたい」彼は嬉々としてこちらを見返してくる。高揚感が嫌というほど伝わる。「風呂場が血で濡れてるのはあそこが切断現場に違いないからなんだけど、それは身体から頭部を切り離した場所、ということじゃないんだ」

「どういうこと?」


「犯人は何か理由があって桃子ちゃんの頭部を切断したけど、まさか持ち去るわけにも行かなかった。当たり前だね。そんなの持ってたら一発で犯人だとわかる。だからこの部屋のどこかに隠すことになる。あるいは、隠したいがために切断したのかもしれないけど、それはこの際どっちでもいいや。ともかく見たとおり、桃子ちゃんの胴体は肩から上がない。それを切り取ったのはこのベッドの上だった。犯人はそれでその穴に頭部を仕舞えると思った。でも実際にはそうではなくて、もう少し小さくする必要があった。だから、今度は喉元から首そのものを切りとっちゃえばいいやと思ったんだ。でも最初に切り離したときとは違い全体が血と脂でぬるぬるしていて切り辛い。だから洗い流しながらやろうと思って」


「風呂場に頭部を持って行ったのか」肝心のところを竹本浩二に奪われ、朝野保彦は不満顔を隠さなかった。「確かに鷲見さんの身体をそのまま引きずって、風呂場で切断してベッドに戻したとするよりは、ベッドですでに一度切断していて頭部だけを持っていったと考えたほうがすんなり納得できるな」


「で、結局頭はこの中にあると、そういうことか?」

「恐らくね。ここ以外に適当な場所もないし。完全に頭だけなら、角度を調節すればこの穴に入れられると思う。シャッターをしてしまえば、パッと見には隠れるしね。頭は大きいものだという固定観念から、今の一のように入らないだろとも思ってしまうし、普段こんな小さな窓は目にしないから、探す対象としてすぐには認識されない」


 一瞬の沈黙が降りる。

 それは覚悟のための間だった。


 シャッターを押し上げると、薄闇の中に、鷲見桃子の顔があった。


 苦痛に歪んだままで硬直したらしく、それは直視するにはおぞましかった。

 美しい顔をした女性だったはずなのに。


 息を止め、俺が代表となって彼女の頭を引き出した。簡単にはいかなかったが、十分と掛からなかっただろう。所々すれたらしく、傷が出来ていた。

 確かに朝野保彦の言うとおり、それに首となる部分は一切なかった。


 俺は身体の横にそれを置くと、二つを合わせて毛布に包んでやった。

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