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 上田亜里沙に肩を貸してやって、全員で階下に戻る。服にも身体にも異様な臭いが染み付いてしまってならない。血はすっかり乾いていたものらしく、絵の具を触ったように手や服がほんの少し赤く染まっているに留まる。


 人数分の水を持ってきて、それぞれに手渡す。水ばかりあっても仕方がないと思っていたが、もうほとんどを使ってしまった。喉の焼けるような痛みに、水は優しい。


「首は」一段落すると、中村梢が若干上ずった声を上げる。喘いでいるようにさえ思えてしまう、細い声音だ。「あったの?」


「正確に言うと」俺はなぜこんな訂正をしてみせたのか。「首はない。でも、頭はあった。あれは確実に桃子だった」

「どういうこと?」


 俺たちは互いに互いの説明を補いつつ、先ほどの出来事、推論を語って聞かせる。中村梢は時折想像してしまうのか、短い悲鳴を上げたりしながら聞いていたが、神崎奈美は静かなものだった。未だに実感に乏しいのだろうか。


「この際その首の部分がどこにあるのかなんてことは、どうでもいいと俺は思う」煙草に火を点け、一口大きく吸ってから、言った。「何か理由があって犯人はあそこに頭部を隠したかった。そのための高さ調節でしかなかったんだろう」


「それで、結局なぜ隠したのか、ということか」

 竹本浩二は意味深長な視線を朝野保彦に送ったが、彼ももう疲れ果てたのか、いちいち突っかかる余力はないらしく、無言のままだった。


 一瞬の空白が場を支配する。


 藤本正樹が出て行ってすでに二時間近くが経ったのではないか。

 ぼんやりとそう考えていると、煙草を吸ってようやく落ち着いてきたのか、上田亜里沙がかすれた声を出す。


「竹本くん。一般的に、と言うと少し違うかもしれないけど、ミステリで言えばなぜ犯人は頭を隠すのかしら。わかる?」


 駅から鷲見邸までほとんど会話をしなかった人間が、こうしてそのときの連れ合いに話題を振っているのは、傍から見ても違和感があった。殺人事件という特殊状況下で、普段持ち合わせている防波堤などすでに破壊されているのだろう。もしくは神崎奈美への想いを暴露させた以上、男性に対して過剰にガードをする必要性をなくしたか。


 そんなことはともかく、この点に関して竹本浩二以上に適役が居ないのも事実だ。

「そうだね。いくつかある。一が言っていたように、あれが鷲見桃子であるという確証を持たせないため、つまり、被害者を誤認させるためというのが王道なんじゃないかな」


「ああ、被害者だと思っていた人間が犯人でしたってやつ? 僕はあれは嫌いだなあ」

 朝野保彦は随分余裕が戻ってきたらしい。得意になっているのかもしれない。


 そちらをちらりと見て、

「そう。死体はどうしたって容疑者リストから外れるからな。それこそ、起き上がらない限り。ただ殺人が一件しか起きていない現状から考えると、この線は薄いな。次に何か起こったときに、もしかして、と思い浮かぶ理屈だから」そう言って自分で怖くなったのか、階段室のほうに視線が泳ぐのを見逃さなかった。「あとは、例えば犯人は被害者を襲ったときに腕を噛み付かれてしまったとかなんとか、なんでもいいんだけど、首から上に自分が犯人であるという証拠が残ってしまった場合。これも首を持ち去ったりする理由としてはポピュラーだろう。悪いけど、今出てくるのはこんなものかな」


「この場合、どちらが有りそうかな」と朝野保彦が聞くので、

「どちらもないだろ」と俺が代わって答える。「だって同じ部屋の中に隠してあったんだぜ。顔を見れば誰だって桃子だってわかるし、すぐに見つけられる場所に隠したんじゃ証拠を隠すも何もないじゃないか」


「いや、すでに証拠は隠滅されてるのかもしれない」

「だったとしたらそもそも隠す必要がない。桃子たちが下りてこないと言って二階に上がるまで、皆アリバイらしいアリバイなんてものはないんだ。その間に隠滅なんていくらでも出来る。そうした後で、胴体と頭部を別にしておく理由なんてないだろ。それこそ杜撰だよ。証拠を隠滅した後なら頭はそのまま放っておけばいいだろ。わざわざ、こうやって隠しておいたんですよ、と同じ場所に戻す必要がない。それにさっき上に行ったとき、俺は顔に触れはしたが、それだけで隠せるような証拠ならそもそも隠滅なんて仰々しい言葉遣いをするほどの代物でもなかったってことだろ。あとは誰も触ってないんだし、俺が変な動きをしていなかったのはお前らが見たとおりだよ」


「それもそうか……」

 細長い煙が視界に入り、その出所に視線を向ける。

「上田さんはどう思う」


「私は……。そうね、どちらでもないとは思う。何か別の理由があるんだと」すっかり感情のない声音に戻っている。「ちなみに、首の切断というのは、奈美や梢にも出来ることなのかしら」


 急に自分の名前を出されたためか、二人は驚いて上田亜里沙のほうへ視線を投げた。


「私じゃない」中村梢が否定すると、

「一応の確認よ。もちろん、二人とは違って小柄ではないけど、女である私にもその可能性があるのかどうかは、大事なことでしょ。結局、他人には自分が殺していないことを証明できない状況に変わりはないみたいだから」


「出来るよ」と言ったのは朝野保彦だった。それはもちろん証明に関してではない。「昔ニュースでやってたんだけど、女子高生が父親を殺して首を切った事件があって、抵抗しない相手なら女性でも容易に出来るとそのとき言ってた。女子高生の体躯と言えば、高が知れてる」


「そう。じゃあやっぱり誰がやったかはわからないってことね」そしてこちらを向くと、「そういえば鈴木くん」

「何?」


「さっき上に行く前に、私の話を聞いて何かに思い当たったというようなことを言っていたと思うけど、あれはなんだったの?」

「そういえばそんなこと言ってたな」竹本浩二が眼鏡を拭きながら続く。「それの確認をしたいとかなんとかって」

「したの? 確認」


 朝野保彦に聞かれ、俺は頷く。

「たった今上田さんが誰がやったのかわからないと言ったところすぐにこんなことを言えばおかしいやつだと思われるかもしれないが」そこで一呼吸置く。こんなことを自分が言う羽目になるとは、思っても居なかった。「俺はやはり正樹が犯人なんだと思う」


 そして、俺は考えうる事件のあらすじを、語って聞かせる。


 鷲見桃子は昨日の喧騒の後、LSDの幻覚の中にあっても、藤本正樹から実朝組に関する詳細をどうしても聞きたかった。朝野保彦により昏倒させられ二階へ運び込まれた藤本正樹に意識はなかったが、叩き起こしてしまえばいいと思い部屋を訪ねる。


 実際的にそこでどのような会話がなされたかはわからないが、結局また喧嘩に発展したのだろう。そうして到達するのが産む産まないの話である。鷲見桃子としては産む気がないらしく、それは実際、平常時よりは控えていたとは言え酒やドラッグの使用などによってあからさまとなっているが、藤本正樹はどうしても譲れなかった。彼がそこまでの子ども好きであるというような話は余り本人からも聞いたことがないが、そのあたりは別にひけらかすほどの話題でもないから、俺たちが知らなくてもどうということはない。事実その件が平行線を辿っていたらしい、というのが重要だ。


 何が引き金になったかはわからないが藤本正樹は鷲見桃子を殺した。のこのこと凶器になるようなものを探している間中鷲見桃子がじっとしていたとも思えないから、バタフライナイフでも隠していたのかもしれない。ヤクザの末端であれば、そういったものを持っていてもほかの人間に比べれば不思議はない。


「そして刺し殺した後で、彼は鷲見桃子の腹部を開いた」

「わかった」上田亜里沙が呟いた。「わかったけど、わかりたくなかった」

 俺は頭の中で、神崎奈美の話した、腹部にカッターを仕込まれたテディベアの話を思い出していた。


「それで、自分の子どもを持ち去ったんだ」


 中村梢が低く唸って、洗面所に駆け込む。一旦は平常まで戻った残りの面々も、一様に顔色が悪かった。

 構わずに続ける。


「それをさっき確認したんだ。あそこに、胎児は居なかった。二ヶ月か三ヶ月の胎児なら、頭を運ぶより易いことだろうね。正樹の荷物の中にあるか、それとも今一緒に連れ出したかはわからないけど、多分後者だろう。あいつは胎児を取り出すために、開腹した。それなら腹部があんなめちゃくちゃになっていたのも頷ける。なおかつそうなると、ほかにそんなことをする理由のあるやつは居ないのだから、あいつが犯人ということになりはしないか」


「ちょっと待ってくれ」竹本浩二は頭を抱え込んでしまう。「それはわかる。いや、わからなくもないというレベルだが……、どうして頭を?」

「それに関しては、あくまで補足的なものなんだよ。ついで、というか」

「ついでで恋人の頭を切り離して隠したって言うのか?」


 半ば叫ぶように言うので、そちらをしっかりと見据える。

 このときの俺は、自分でも驚くほど、いたって冷静だった。


「どのタイミングかはわからないが、多分あいつもLSDをやってたんだろう。出て行く前に使ったのは置きっ放しになっていたものではなくてこのときの残りだった。犯行時は幻覚の中で、正樹の精神は正常じゃなかった。自分が殺した恋人の遺体もずいぶん幻想的に見えていたんじゃないのか。サイケデリック、だったか」俺は神崎奈美、竹本浩二以外の、経験者たちを順繰りに眺める。「だから難なく切り離してしまえた。苦しいとも悲しいとも思わなかったんじゃなかろうか。話を聞いてくれない恋人より、何も言わない子どもが欲しかった。自分の血を受け継いだ、可愛い可愛い子どもが」


 沈黙が降り、大事なところを聞き逃した中村梢が戻ってくる。だがわざわざ聞いてくることはないだろう。


「じゃああの悲壮感は、演技だったのか」

 竹本浩二はもううんざりだとでも言いたそうに、煙草の煙とともに吐き捨てる。


 上田亜里沙は何も言わなかったが、

「結局、ついでにそんなことをした理由はなんなの」

 朝野保彦のほうは同様に、ひどく疲れた声で聞いてくる。

 今度は、この場に居る全員を、ゆっくりと見ていく。


「それは、今の俺たちが実際にそうだったように、俺たちの意識があくまでも頭部に向くようにしたかったんだよ。頭のない遺体が見つかった。ということはそちらに何か秘密があるのかもしれない。そういう風にね。首を切り離し隠したのは、それだけの理由だったんだと、俺は思う」

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