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 上田亜里沙が頭を抱えながら、階段室の扉を開いて顔を覗かせた。ほかに何も音がしていなかったから、突然の開閉に俺たちは驚き、視線を向けた。彼女は頭痛がひどいのか、歪んだ表情でこちらに一瞥いちべつくれると、無言のまま近づいてくる。


 竹本浩二同様ソファに座ると大きくため息を吐いて、

「悪いんだけど、誰か煙草くれない?」

 誰を見るでもなく呟く。


「俺のをやるよ」箱とライターを放る。「ストックあるから、それ、全部いいよ」

「ありがとう」鈴木くんからは要らなかったわ、と言うほどの元気はないらしい。「それにしても、最悪な気分」

「ああ、皆そうだろ」竹本浩二が賛同する。「最低最悪だ」


「誰のせいだか」朝野保彦は執拗に灰皿へ煙草を押し付けて言う。「少なからず浩二が正樹に突っかからなければ、あそこまでひどくはならなかった」

「やめろよ」

「辿っていけば、私のせいね」上田亜里沙は仰々しく煙草を吹かす。美人は何をしても様になるものだなと、場違いにも思う自分がいた。「私が殺すとか何とか言ったから。鈴木くんごめんね。こんなことで許されるとは思わないけど、あんなだったけどちょっと、酔ってたんだと思う」

「別に。俺も悪かった」


「なんかここ、おかしいよな」竹本浩二は自分の件については棚上げを決め込んだようだ。「なんていうか、気持ちが落ち着かない。普通なら、俺らいくら酒飲んだって、あんな風にはならないだろ。現に、今までなったことない。それがなんか、皆妙に高揚していたと言うか……」


「そういう場、ってことなんだろうか。こういう窓の極端に少ない、というか一階にはひとつもないような変な造りの建物の中に何時間も居たら、身体も精神も変調を来たしたとして、おかしくはないと思う。俺ら以外に人がいないのも良くなかったんだろう」


「どうだかね」俺の意見にも朝野保彦は否定的な立場を崩さない。早々に離脱したことを怒っているのかも知れない。「お前らは言いたいことをさらっと言ってのけちゃったからそうやって後から理由を付けたがるんだろうけど、ここが変な場だとして、僕には何も変化がなかった。そうだろ? 方々から好き勝手言われただけだ。奈美ちゃんや桃子ちゃんだってそうだった。言われただけの人間だって居るんだ。おかしかったのはお前らだけで、場のせいにするのは無責任だろ」


「お前ら」の内に上田亜里沙を含めることに、朝野保彦はどれだけの覚悟を要したのだろうか。などと思っていると、

「普段なら、そうやって言葉で何とか丸めようとするだろ」やはりと言おうか、竹本浩二である。「でもお前、暴力で片付けたじゃん。それだっておかしな行動だろ?」

「それは極論だ。あの状態の正樹に、誰が言葉で制止を掛けられたんだよ。無理だろ」

「わかんないだろ。お前、試そうともしなかったじゃないか」


「そんなにはっきり覚えてるならぜひとも自分で何とかしてもらいたかったね。余計な恨みを買うんじゃなかった。反省してるなんて言葉だけじゃん」

「まあ落ち着けよ」二人を止めようとして、こういう態度が「見下す」に当たるのだろうかと思い、止めた。普通に会話がなされたところで、和解自体をしたわけではない。確実にしこりは残っている。「それより上田さん」

「何かしら」

「ちょっと聞きたいんだけど、クスリは、いつからやってた?」


 上田亜里沙はちらりとこちらに視線を向けたがそれも一瞬で、まるで何かのおまじないの最中でもあるかのように一心に煙草の火を見つめ始める。


「最近よ。桃子が、お父さんの寝室から見つけたんだって。海外で買ってきたものじゃないかしら。言い訳はしないわ。薦められたからやったの。そしたら抜けられなくなった。今じゃ桃子より酷いかもね」

「頻繁にやってたのか」

「言うほどでもないけど。毎日毎日必ず桃子からもらえる訳でもないし、何より桃子自身も滅多なことがない限りは使わなかったから。余り多くの量を手元には置いてなかった。仕事先でそういうつてを見つけて自分で調達しようかとも思ったけど、そこまでの勇気はなかったし」


「どうして」と聞いたのは朝野保彦である。「どうしてそんなものに手を出しちゃったの。桃子ちゃんはまだわかるよ、正樹との件で色々悩んでたんだろ。でも亜里沙ちゃんは、どうしてクスリなんか」


「朝野くんには、多分理解できないよ。あなたは幸せな人だから」

「幸せだなんて」苦々しげに顔を歪ませる。「聞きたくないね」


「昨日も言ったけど」それをなかったことにして、こちらに一瞥くれた後に上田亜里沙は続ける。「私は、奈美が好きなの。この世の誰よりも、愛してる。でも、異性を好きになって身体的にも満足できる、一般的に言う普通の人たちに、この感覚はきっと理解できない。絶対に報われないのがわかってる。奈美の隣にはいつだって鈴木くんが居る。それを邪魔してやろうと思ってこうして皆と居るけど、実際は出来ていない。彼女の幸せが、私ではなくて鈴木くんと居ることだと、わかるから。歯がゆくて、苦しくて、逃げ道なんてなかった。じゃあ、私はどうすればよかったの? 何が正解だったの? 助けてって言ったら、誰かがどうにかしてくれるの? 私のこと普通じゃないって思ってる人間が、手を貸してくれるわけ?」


 人はそれぞれ別個の生き物である。そうである以上互いに理解しあうことなど不可能だ。「わかるわかる」という安っぽい同情を、ここでしても意味がない。そんなことはわかっている。こと上田亜里沙の件に関して言えば、俺は一端を担っている人間だ。感情を逆撫でしかねない。


 ただ、

「上田さんのことを変わってるとは思わない。一般的なんて、くそ食らえだよ」

 それだけは伝えておきたかった。


 上田亜里沙はもう一度、今度はちゃんとこちらを見たが、何も言わなかった。

 煙草の灰が落ちる。


「本人が居ないのに言うことじゃないかもしれないけど」朝野保彦が口を開く。「僕は別に、梢ちゃんと遊びでセックスをしたわけじゃない。こんなことを言ったって仕方ないけど、わかんないんだよ。僕にだって。どうしてこんなに自分が情けない男なのか。でも誰だってそうだろ? 自信なんかない。だから誰かが好きだと思ってくれていることに甘えたいんだ、皆。愛されたいんだよ。一だって浩二だって、別に僕と心底から親しいわけじゃないだろ。わかんないんだ。他人との距離が。僕は、誰かに必要とされたかった。必要としてくれる人が居るんだって、知りたかった」


「俺も同じようなもんだ」竹本浩二が顔をさすりながら呟いた。「自分の存在価値を誰かに決めてほしかった。自分でも言ったけどさ、所詮端役なんだよ、俺。別に居ても居なくてもいいんだ。そう思ったら悔しくてさ。一と神崎さんはお互いを必要としてる。上田さんも神崎さんが必要だ。その上田さんを、保彦は必要としてて、中村さんが保彦を必要としてる。正樹と鷲見さんもお互いに必要なんだ。じゃあ、俺は、誰に必要とされてるんだって、そう、よく思ってた。八人のグループって言っておいて、本当は俺だけのけ者で、皆で笑ってるんじゃないかって、怖いんだ。だから自分の存在をアピールするために馬鹿みたいな自論を語ってさ」


 自らをあざけって笑ったつもりなのだろうが、どう見ても泣いているようにしか思えない。


 他人のことはわからない。それは言葉にされたって基本的には同じことだと思う。

 ただ、言葉にもせず、わからないからという前提に立っていたら、いつまでだって少しも近づけない。


「なあ俺」

 言葉を発したとき、階段室から中村梢が転げるようにして出てきた。

 全員の注意がそちらに向く。


「どうしたの」朝野保彦が駆け寄る。「大丈夫?」

「うう」中村梢はほとんど開いていない目で彼を見つめる。「朝野くん」

「落ちたの?」

「いや、今少しつまずいただけ、大丈夫」手は借りない。「なんか、すさまじい夢を見たような心地だったけど、今の衝撃でちょっと目が覚めてきた」


「LSDのせいかもね。強烈な幻覚作用があるから。さぞサイケデリックだったでしょう」

「亜里沙は何でそんな平気な顔してるの」

「慣れだよ」その言い方が「上から」であると自分で気付いたらしく、「でも内心私も気持ち悪くて仕方ない」少し寄り添った言い方に変えた。「こっち座りなよ。朝野くん、肩貸してあげて」


 中村梢は結局朝野保彦の肩を借りながら、よたよたとソファに近づいた。そして項垂うなだれる竹本浩二を見て、沈痛な面持ちを一瞬だけ見せた。もしかしたら彼の独白を聞いていて、どこか共感する部分でもあったのかもしれない。と思いもしたが、ここは構造上扉一枚で音がほとんど遮断されるため、聞こえてはいなかっただろう。男が泣いているのを見ると、誰だってこんな顔をするのかもしれない。


 席を立ってペットボトルの水を人数分持ってきた。煙草ばかり吸っていても身体は浄化されない。


 上田亜里沙は中村梢を気遣いながら、ちらりとこちらを見た。俺の話が途中だったのに気付いていたのは彼女だけだったようだが、俺は首を振ってもういいのだと示す。話してどうこうとなるようなものでもない。


 そうしてうなされている中村梢を前にして、朝野保彦は深く頭を下げた。唐突な出来事で、誰もが何も発せなかった。


「ごめん。ごめんなさい。僕は君を利用したと言って間違いじゃない。でも言い訳をさせてくれ。あれは、遊びだったわけじゃない。こんな軽い男が何を言ってもきっと許してもらえるわけなんてないだろうけど、僕にも、あの時梢ちゃんが必要だった。それだけはわかってほしい」

 誠心誠意のつもりなのだろうが、どこか墓穴を掘っているような感もあり、この男の実直さを改めて思い知る。


 中村梢はころころと笑った。

 朝野保彦の挙動よりも、気味が悪かった。


「別にいいよ。気にしてないよ。遊びでも何でもいい。よく考えれば、好きな男にどんな理由であれ一度でも抱かれたなら、それで幸せだと思わなくちゃ。謝らないで。惨めになるから」


 それから、誰も何も言わなかった。


 時間ばかりが過ぎていくが、一向に鷲見桃子、藤本正樹、神崎奈美が下りてこない。


 昼過ぎになって、いい加減起こしに行こうという話になった。それに、今ホールに居る五人ばかりで昨日のことを消化させていても仕方ないと話がまとまる。

 神崎奈美の部屋には俺が、鷲見桃子の部屋には上田亜里沙が、藤本正樹の部屋には朝野保彦が様子を見に行くことになる。


 神崎奈美は布団に包まって壁のほうを向いていた。そちらに回り込むと、どうやら例の壁の穴を一心に見つめていたのだとわかる。

「大丈夫? そろそろ起きよう」

 何も言わずに立ち上がり、寝癖はそのままに衣服の乱れを直し、俺に手を引かれるまま、二階ホールに抜ける。


 藤本正樹の部屋から、朝野保彦が転がり出てきた。起き抜けに一発貰ったらしい。

「仕方ないだろ、ああしなきゃお前止まらなかったじゃん。たんこぶで済んだんだから勘弁してくれよ!」


 その言い訳にかぶさるようにして、上田亜里沙の悲鳴が轟いた。


 部屋を出てきた藤本正樹も、いかにも機嫌の悪そうな顔に銀縁眼鏡を装着すると、

「なんだようるせえな」

「どうしたの」朝野保彦が上田亜里沙に近寄る。


 上田亜里沙は言葉にならない声をいくつか発すると、そのまま気を失ったかのようにぐったりと倒れこんだ。


 朝野保彦が、短い悲鳴をあげ、後ずさる。

 俺と神崎奈美は、彼が開いていたドアの隙間を縫って、部屋の奥を覗いた。


 短い廊下を挟んで、ベッドが見える。

 その上に、鷲見桃子の身体が見えた。

 足はだらりと垂れ、手がベッドの上に無造作に投げ出されている。



 腹部が真っ赤な血で覆われ、内臓が露出している。



 鷲見桃子の肩から上、頭部は、存在しなかった。

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