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運転手であった朝野保彦と中村梢はもとより、四時間少々のドライブは、普段ちょっとした電車移動ばかりの人間にとってはなかなかの疲労感を与える。
「煙草吸っても平気? 灰皿ある?」朝野保彦が聞くと、
「あるよー」テーブルの下に引き出しが付いてあったらしく、そこからガラスの灰皿を二つ出す。「別に禁煙じゃないから皆も吸って良いよ」
その言葉に甘えて、男は煙草を吸い始めた。道中でもかなりの本数を吸ったが、それでも飽きないのが喫煙者が喫煙者たる所以だろう。
ぽつぽつと会話はあったが、余り実りはなかった。そのうち朝野保彦が寝息を立て始め、藤本正樹も部屋に引き上げた。俺は鷲見桃子に許可を貰ってから神崎奈美を引き連れて一階の扉を順々に開いていく。
玄関、階段室と来て、その隣にあったのは各部屋のものより豪奢なバスルームであった。入り口の対面に鏡が貼り付けてあり、洋風の煌びやかな洗面台が二つ付いている。
「なんだか高級ホテルみたい」
部屋は右手側に続いており、そちらに女性用と男女兼用のトイレがある。さらに奥にガラス張りのバスルームがあった。
「これは入るのに勇気が要るね。何でお金持ちはお風呂場をガラス張りにするんだろう」
「自分に自信がある現われだろうね。ともかく部屋にあってよかったよ。交代交代にしても、この風呂には入りたくない」
笑いあいながら次の部屋に向かう。
次はどうやら物置部屋のようだ。様々なものがない交ぜに置かれている。見たところどこにも暖炉などないのに手斧が置いてあったり、何のためのものか猿の剥製まであった。余り広くない上に物がごった返していて踏み込めない。ほかに視界に入ったものは、この高い天井にも届きそうな巨大なキャットタワー、ところどころ錆びた折りたたみ自転車、背丈以上もあるベースアンプ、崩された甲冑に日本刀、脚立などなど。量も尋常じゃないがジャンルも幅広く、不要になったものをとりあえず突っ込んでおいた、という適当さが窺える。
玄関と対面にある、時計で言えば十二時の位置の扉は、遊戯室に続いていた。今まで見た部屋で恐らく一番大きいのだろう。卓球台が二つ、ダーツセットが三つ、壁にはバスケットゴールまで付いていた。
「これはすごいね。後で卓球しようよ。俺、高校のとき卓球部を負かした実力あるよ」
「私こう見えて中学時代卓球で東京代表になったことあるよ」
「知らなかった。じゃあ相手にならないだろうな。うちの卓球部、地区大会ですら負けてるようなところだったから」
後で改めて見ようということにして、次に移動する。
キッチンである。と言っても、一般家庭にあるようなサイズではなく、料理教室を開けそうなくらいの大きさである。食器や調理器具の数も膨大で、二人で数えたところ、包丁にいたっては大小様々十五本もあった。冷蔵庫も海外サイズのようだが、中を開けたら水しか入っていなかった。
「あとで誰かに買出しに行ってもらわないといけないね」
最後の扉は書庫だった。書庫というか、古本屋の風情に近い。高さ二メートルほどの本棚が所狭しと並んでいる。蔵書は一般小説から漫画まで、こちらもジャンルは様々である。子どものころによく読んでいたような昆虫図鑑なども揃っている。
「竹本くん好きそうだね」
「奈美も結構うずうずしているんじゃない?」
「私は本がというか、ミステリが好きなだけだから。彼は全般好きみたいだけど」
「そうなんだ、知らなかった」
指輪を持っている余裕か、嫉妬心は余り湧かない。
全部屋を見て回ったが、どの部屋も四角に切り取ってあった。ということはこの家は大きな箱の中に二枚の歯車を入れたような構造をしているらしい。客室の窓の構造を見ての通りデッドスペースがかなりありそうだが、壁一枚で隣の部屋、というわけでもないのは、多少なりともプライバシーが守られて良いものだ。ここまできて守るべきプライバシーなどさほどないが。
ホールに戻ると、鷲見桃子と上田亜里沙が二人で女性誌を覗き込んでいて、中村梢と朝野保彦は眠っていた。竹本浩二は煙草を吹かしながら、読書を始めている。各々それなりに退屈しのぎのすべは用意していたらしい。俺はプロポーズのことで頭が一杯で、そこまで気が回らなかった。
神崎奈美は竹本浩二を誘って書庫に戻った。俺は手持ち無沙汰になったので携帯を弄ろうとしたが、圏外らしい。
「ここ、電波入らないよ」
「みたいだね」諦めて仕舞い、代わりに煙草を取り出す。「外観もそうだけど、とことん隔離されたいらしいね」
「私はお父さんがここで何してるか、想像はできるけど実際は知らないしね」鷲見桃子は視線をこちらに寄越す。「とにかく邪魔はされたくないみたいで。あ、でも何か困ったら、一応据え置きの電話はあるから、それを使って」
「どこにあった?」
「玄関のところ。外への連絡は基本的にそれを使って。それか、外に出てちょっと歩いてくれれば多分携帯も通じるけど。もともと山のほうだから電波は入りにくいとは思う。まあ基本的には内緒の宿泊だから外部へは連絡しないでね」
「わかった。一応確認してくる」そう言って俺は一度席を立ち、玄関の靴棚の上、花瓶に隠れるようにして置かれている電話を視認する。鷲見連太郎がここで何をしているかは知らないが、これではあえて隠しているという印象が強い。客人には電話があることを秘密にしているのかもしれない。ホールに戻り、「しかし困ったことに、携帯が使えないとこれといった暇つぶしが何もないんだ」
「じゃあ鈴木くんも雑誌見る?」上田亜里沙は例の感情の出ない声で言って、表面上くすくすと笑った。冗談のつもり、と受け取っていいのだろうか。「女装趣味はないだろうけど」
「生憎。そういうのに載ってる体験談のコーナーみたいなのも嫌いだし」
「これには載ってないよ。私も嫌いだから、そういうのが掲載されてない雑誌を選んでる」
「上田さんが載ってる雑誌はどうなの?」
「ああ」相変わらず平坦である。これではモデルとしては一流になっても女優の仕事は来ないだろうなと思う。「あれは若い子向けだから、そういう下らないものが載ってないと売れないのよ」
「ふうん」返答しながら、ソファに座る。「そういえば上田さんってスカウトされて読者モデルになったの?」
「基本的にはああいうのは応募するものだよ。私の場合は一年のときにこの子が」と言って隣の鷲見桃子を指差す。「勝手に送ってて。この子顔小さいんだしスタイル良いんだから自分でやればいいのにと思ったけどね」成人女性の、頭頂部から顎までの長さの平均値は二十二センチほどと何かで聞いたが、鷲見桃子のそれは多分一般より一回りは小さい。「でもまあ、これも何かの縁だろうからやってもいいかと思ってとりあえず続けてるだけ。生涯の仕事にするつもりもないし」
「将来は何かやりたいことでもあるの?」
「鈴木くんはあるの? やりたいこと」
「やりたいことか」質問しておいてなんだが、神崎奈美と居たいということ以外、考えたこともなかった。「別にないかも」
「私もそう。別にないの。ただ今与えられている材料で遊んでいるだけ。皆そういうものでしょ。大体、いつ死ぬかも知れないのに将来はさあ、なんて語ってるやつ、寒いし。叶わなかったとき、聞かされていた側の身にもなってほしい」
「随分冷めてるね」竹本浩二の正反対を行くタイプらしい。
「でもそれが現実でしょ? スプラッタものの映画みたい、なんてこの建物を見て言っていたけど、実際、急にのこぎりでも持った大男が襲ってこないとも限らないんだし。何が起きるかわからない世の中で何をしたいか考えていたって仕方なくない?」
「それもそうかもしれないね」
「鈴木くんは物分りが良いね。これ以上話を続けても無駄だとわかったでしょ」
上田亜里沙はそれきりで言葉を切った。普段どおりの口調なのだろうが、随分辛らつに言いくるめられてしまったような気がする。何か嫌われるようなことをしただろうか。
そのうちに、朝野保彦が目覚める。その頃には竹本浩二を書庫に残し、神崎奈美もホールに戻ってきていた。
「いやあすっきりした」
大きく伸びをして、目元を拭う。
「おはよう」
「今何時?」
「六時前」
「おっと、そろそろ夕飯だね。バーベキューとかしちゃう?」
寝起き早々軽口を叩く朝野保彦だが、
「バーベキューセットはないなあ」
鷲見桃子にあっさり却下される。あったとしてもあの物置から引っ張り出すのは一苦労だろうと、実際に見ている俺は思う。
「というか、食材自体なかったけど」
思い出して神崎奈美のほうを見て言うと、
「水しかなかったよ」
付け足してくれる。
「じゃあ買出しが必要なわけか」
「この辺スーパーとかないから、早めに出たほうが良いかも」
「よし。煙草一本吸ったら行ってくるか。ほらほら」そう言って中村梢を小突いて起こすと、「運転の練習だよ。梢ちゃん行くよ」
「うう……」小さく呻いてから、「鬼」
「鬼でも何でも。運転しなきゃ運転技術なんか上がらないんだから。帰りも任されるんだからがんばってよね。事故起こしたら洒落にならないよ」
そうして六時半には、二人が買出しに出て行った。
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