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 結局、後は集合時間を午前十一時と定めただけで、また会話は分散し、会議は本当に名ばかりで終わった。形にもなっていない。竹本浩二と神崎奈美にいたっては本筋には一切関わらず、終始ミステリ談義をやめなかった。


 徒労感だけが身体に鎮座し、収穫はなかった。鷲見桃子にしてみればこれでも別に良かったのだろうが、俺としては堪ったものではない。


 解散後、神崎奈美と二人で町中を歩きながら、他愛のない話をする。竹本浩二と彼女はことミステリに関しては本当に話が合うようで、先ほどのように群衆の中で話し込んでいることがしょっちゅうあった。それに対して嫉妬をしないほど俺も出来た人間ではない。それでも何度かに一度だが、やはり人間の汚い部分が感情を支配することがある。特に、あのように百害あって一利もない立場に居る状態で、快く受け入れられるわけもなかろう。


 自然、こちらからの会話は少なくなる。ひと月半とは言え男女の仲として付き合っていればこの程度のことを察せられないわけもなかろうが、このときは向こうが空気を読んで静かになればなるだけ、却って気持ちが落ち着かなかった。


 思考力は思考をするために存在するとは前に言ったが、その結果が必ずしもプラスの方向へ換算されるかといえば、当然だがそうではない。むしろ大抵の人間は思考することによりマイナス方向へ身を沈める。埋没していく。思考の渦の中へずぶずぶと足を取られる。今まさに、そうなりつつあった。


 半ば習慣的に安いラブホテルに移動する。カップルというものはセックスをするために付き合うのか、付き合っているからセックスをするのか。藤本正樹と鷲見桃子は身体の関係が先にあったと当人から聞いたことがあるが、そういうことも茶飯事だから最近を生きる人間の思考展開は理解の範疇から逸脱する。神崎奈美との関係に関してはそれらとは違うものだと俺は思っても、彼女もそうかはわからない。それに悲しいことに、当人たちがどのように考えていようともこの社会を生きるということは常に他人の視線を気にしなければならないもので、周りから見れば俺たちはセックスをしたいから交際しているように思われるのかもしれない。「他人」とは読んで字の如く自分以外のほかの人であって、各々に思考の渦を抱えて居る限り、理解することもされることも難しい。


 セックスはなぜ行われるのか。

 愛とは何か。

 付き合うとは何か。

 渦は俺の身体を簡単に飲み込んでいく。


 俺は神崎奈美というこの人を本当に愛しているのだろうか。


 それでもそういう行為をしようとすれば身体はしっかりと機能するし、快楽も得られる。少なからずそれは相手に好意を抱いていないと無理な話だろう。綺麗ごとだという自覚も、極論だという認識もあるが、身体的に異常が出ないということは、それだけで愛を抱いているのだとすればいい。


 行為の最中もこの果てのない暗闇の中で身を屈めていたせいか、事後、煙草を吸うために点けたライターの火が温かく、妙に明るく感じる。

「一くん」

 神崎奈美は裸のまま布団を掛け、ベッドに横になっている。俺は下着だけを穿いて彼女に背を向ける形で縁に腰掛けていた。


「なに?」

「皆のこと、嫌いになった?」


 それは少々予想外の台詞だった。

 そんなことを思ったことも考えたこともないからだ。


 振り返り、

「どうして?」

「なんだかさっきから、色々考えているみたいだから。もしかして集まりでの皆の態度にいい加減呆れたのかなと思って」


 自身が筆頭である認識はあるのだろうか。

 しかし、

「そんなことはないよ」と本心から思う。「色々考えていたのは確かだけど、別にあいつらは関係ない。あいつらが人の話を聞かないのなんていつものことだし」

「そうならいいんだけど……。あんまり考え込みすぎないでね」


 考える。それだけが人間に与えられたただひとつの武器なのに。


 煙草がじりじりと灰に変わっていく。このように目に見えて人の感情や思考が変化するのなら良かっただろう。頭の中でどれだけのことを考え気持ちを切り替えたとしても、その熱意は傍目には火の点いていない煙草のままかもしれない。


 感情の変異が、殊更見えにくい人物というのも居る。俺はどうだろう。

 自分のことは、意外にも自分では網羅できなかったりする。

 そもそも思考というのは、他人が居ることが前提に存在するような、そんな気にさえなってくる。


「それにしても」神崎奈美の声は少し弾んで聞こえた。「軽井沢なんて楽しみだね」

「奈美も行ったことはないの? 昔から桃子と仲が良かったんだろ?」

 言ってから、これは詮索しないと決めたことだったはずなのに、と悔やんだ。

「まあね。でも、家族ぐるみで、ということはなかったかな。桃子のお父さんが、桃子に対して無関心な風だったから、もしかすると私が幼馴染だってこともわからないんじゃないかな。お母さんは何回か変わってるみたいだから、あんまり知らないけど」


 思いのほか彼女自身からの拒絶反応は見えない。

「お父さんって、鷲見連太郎か」テレビ越しにしか見たことがないので、友人の父親というよりはやはりタレントというイメージが強い。改めて口に出しても、それを鷲見桃子と結び付けようとすると違和感しかない。「そうなの?」


 神崎奈美は話に本腰を入れようとしてくれているのか、枕を背凭れに半身を起こした。それに応えようと俺もベッドの上に胡坐あぐらを掻き、しっかりと彼女と向き合う。


「前にも言ったと思うけど、私、高校以外は桃子と同じ学校に通ってたから、それこそ小学生の頃とか良く家に遊びに行ったんだけど、まず両親ともに不在のときが多いのよ。お父さんは仕事であちこち飛び回っていたし、お母さんはその間に浮気三昧だったみたいで気付いたら別れてた。桃子は余り気にしていなかったけど、両親が出迎えてくれるのが普通だった私にしてみたら、それはやっぱり無関心に他ならないんじゃないかなって。娘のことを気にしないから何度も結婚と離婚を繰り返せるんだと思う」


「なるほどね」余り桃子本人と家の話をしたことはなかったが、これでは話したいとも思えないだろうなと感じる。「じゃあやっぱり仲が悪いのかな」

「仲が悪いというか、なんだろう。多分私たちが思う親子って言うものとは少し違うんだと思う。お金を払えばいいと思っている人間と、お金をもらえればいいと思っている人間が、ただ同じところを拠点に生活しているだけ、というか……。こんなこと言ったら失礼だけどさ」


「ふうん」煙草を吸い終え、効き過ぎた冷房で少し足が冷えてきた俺は、ズボンを穿きながら質問を続ける。「そういう親と子だから、当然別荘へなんか招待されなかったってわけか」


「うん。別に誘ってほしくて仲良くしていたわけではないけどね」神崎奈美も布団を抜け出し下着を付けながら、少し笑う。そういう下心のある人間のことを、あの飲み会のとき彼女は非難していた。今も言うということは、根っからの意見なのだろう。そして何かを思い出したように、「なんか、話に聞く限り、私たちが行こうとしている軽井沢の別荘は変なところらしいよ」

「変なところ?」


「具体的には良くわからないけど、桃子がそう言ってたの。大学生になってからは昔ほど近しい関係じゃなくなったから、もうずっと古い記憶なんだろうけど」


 なんと答えたものか。


 神崎奈美の視点からすると、鷲見桃子は変わったらしい。それを俺は酔いの回る頭で「都合が悪くなっただけ」だとした。本当のところはどうかわからない。昔の鷲見桃子を知らない俺からしたら、判断のしようなどない。ただ、神崎奈美の悲しそうな顔から、今でも「特別」が付くような仲だ、ということではないのはわかる。


 二人とも完全に服を着て、ソファに場を移した。性懲りもなく煙草を吹かす。そのまま返答をしないでいたが、彼女ももう頭を切り替えたらしく、

「あんまり吸いすぎると、身体悪くなっちゃうよ」

 いつもの調子に戻っていた。


 喫煙者の敵は嫌煙者であると同時に、このように心配を寄越す人物である。扱いに困るのだ。ましてや恋人関係となれば思い切りのいい対処は出来ず、そっぽを向いて曖昧に頷く限り。


「例えばなんだけど」そしてこのような質問を繰り出した意図は、自分にしてみても不鮮明だった。それは親子というワードに反応してなのか、それとも神崎奈美の表情から発生したのか、もっと遡って愛だのなんだのと考えていたせいなのか、きっとそのうちのどれかに起因したのだろうと想像することはできるが、判然としない。「奈美はこの先も、今みたいに俺の身体を心配してくれるの?」


 さりげなさを装ってあえて彼女のほうを見なかったので、どんな表情をしたのかはわからなかったが、反射的かどうか、こちらを向いたのは痛いくらいの視線で実感する。


 臭いプロポーズのようだと、言ってから思う。

 自分でも意識しなかったが、もしかしたら臭いプロポーズそのものだったかもしれない。


「一くんが良いなら」


 たったひと月半の付き合いで、それももう大学生の男女が、何を浮かれたことを言っているのかと、普段なら馬鹿にしていたことだろう。ただ俺はこのとき、普通ではなかった。わからないことばかりで呆れてしまうが、やはりその理由も良くはわからない。竹本浩二と仲が良さそうに見えたから独占欲が湧いたのかもしれない。藤本正樹と鷲見桃子の喧嘩を見て自分たちはそうなりたくないと強く思ったからかもしれない。理由を付けようと思えば付けられるが、どれもこれも、正確のような不正確のような、模糊もことした状態でしか浮かばない。


 自分では、自分を網羅できない。


 神崎奈美は照れくさそうに応えてくれた。

 俺たちは、セックスのために付き合っているわけではない。そう思いたい。


「指輪を」意味合いのせいか、妙に言い慣れない言葉に思える。「指輪を買うよ」

「そんな、良いよ」

「高いものにはしないし、重く捉えなくて良いよ。俺、なんだかんだで初めての彼女だから、浮かれているところがあるんだと思う。遊びだと思ってくれて良いから」

「くれるなら」神崎奈美は俺の手をそっと取る。「ちゃんと、ありがたく頂きます」


 そしてにこりと笑う。

 好きとは何か、そんなことはどうでも良い。

 思考の渦から這い上がる。

 ただこの一瞬を大事にしたいと思える相手。

 その人のために何でもしてあげたいと思える相手。


 愛というのは言葉でしかない。それも、抜け殻のようなものだ。

 ならば俺は、その抜け殻に、これから中身を入れてやればいいのだ。

 それだけの話ではないか。


 思わずおかしくなって笑い出してしまうと、神崎奈美は、

「なによー」と膨れた。

「ごめんよ。なんだか、ドラマみたいだ」

「安っぽいセットね」周囲を見回し、わざとらしく言う。「どうせならこんな場所じゃないほうが良かったわ」

「それに関しては素直に謝るよ」

「冗談だよ。ちょっと気取ってみただけ」

 しかしそこではたと思いつき、

「いや、今度、ちゃんとした場所でまた、お願いさせてもらうよ」

 それがどこを指すのかをすぐに理解してくれたらしく、にこりと笑って頷いた。


 軽井沢は、目前に迫っていた。

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