二
1
次の授業は、グループ内の男子と女子が見事に分断されている。
階段教室の後方を確保し、四人で並んでざわめく前方に視線をやる。
一番奥に藤本正樹、俺を挟んで朝野保彦、竹本浩二の順である。
授業の開始時刻はすでに十分程度過ぎていたが、教授が現れる気配は一向になかった。そのためのざわめきである。
「もう帰らない?」
朝野保彦は丸っこい髪型の頭を掻き掻き、大きくあくびを漏らして言う。彼の特徴を述べるのは難しい。例えばこの広い教室内に五人は同じような顔と服装をした男がいるのではないかと思われるような、つまり一般的な大学生然としていて、特筆点がない。苦渋に満ち満ちて強いて挙げるとするならば、彼の顔の中央が、それなりには様になる鷲鼻であることくらいか。逆に言うと、特徴を挙げようとがんばるとその鷲鼻に全てを持っていかれて、顔全体の印象は薄い。
「俺はとりあえず残るけど」
一方竹本浩二は、時代錯誤も甚だしい長髪である。お洒落というよりは、いっそ無様である。それに、丸眼鏡と古着。昭和からひょっこりタイムスリップしてきたような違和感がある。それが全く似合っていないわけでもないから、なおさら彼自身に対する異物感というのが湧き出てくる。
例のチンピラ風情の藤本正樹は無言のまま、窓外に視線を走らせている。銀縁眼鏡を外しているのでほとんど何も見えていないのではなかろうか。相当悪いと昔聞いた記憶があった。とはいえ窓外に何か面白いものでもあるわけではなかろうし、それは教室内でも同じことだ。
何十、何百の人間が同じ箱の中に自主的に入り、そこで一時間半もの拘束を受ける。電車などには利便性があるからまだしも理解できるが、ここの不思議なところは、散々好き勝手愚痴を吐きつつも、結局は誰もが自分の意思で足を運んでいるということだろう。積極性がなければこの拘束もありえない。それが社会の中で常識として何年何十年も通用しているのだから狂っているといって相違ない。
藤本正樹は俺の視線に気が付いてこちらに振り返った。
「なんだよ」
外見もさることながら、口調も粗暴である。ヤクザに絡まれる以前からドライブをともにする程度には仲が良かったはずだが、そのときからこのような口調を扱う男だったかどうか。もう記憶にない。ただ、ここ一二年で言葉に含まれる覇気といおうか凄みといおうか、そういったものが増したのは確かなことだろう。もともとの低い声音に加え、本筋の方々に色々仕込まれていると思われる。
「いや。別に」
「煙草吸いてえな」
俺の返答は至極どうでも良かったらしい。
喫煙者にとって、嫌煙者は敵である。それは逆も然りだが、運よく俺たち四人は全員が喫煙者だった。喫煙者であったからこそ今もこうして関わりが継続しているのかもしれないと、思わないでもない。煙草を吸う吸わないというだけの話で何を大げさにと思うかもしれないが、これがなかなかの比重を占めることなのだ。
極端なイメージの話をすれば、嫌煙者というものは喫煙者に対し「副流煙によって私の身体的健康が侵害されている」といったようなことを喚き立てるが、これが本当のことである保障は何もない。どこかのお偉いさんがそう言っているというだけの根拠しかない。それだけあれば十分ではないかと思う向きもあるだろうが、大抵の場合、情報というものは発信する側の都合によって内容を操作されるものだ。医者でもなんでもないただの一般人にしてみれば真偽は与り知らないことである。
そしてこれは喫煙者の一方的な意見に過ぎないので嫌煙者ならずとも一笑に付されることだろうが、喫煙者を迫害することは食の好みを否定しているようなものだ。「脂身ばかり食べて頭がおかしいのではないか」とあざ笑っているに近しい。ということを言うと、他人への害の有無の問題を無きものにしているとの批判が届きそうだが、ここまでの全てが極論であることは百も承知である。つまり、他人を理解しようとしない、自分の都合さえ良ければあとは詭弁でどうとでもなる、という前提が喫煙、嫌煙問わずどちらの側にも存在するということを再認識し、それについて論じているに過ぎないのだから。
とはいえ、神崎奈美との議論にもあったように、かく言う俺こそ、根本的に他人を理解できるという前提は持っていない。ただし、持ってみようという努力自体を怠ったこともない。映画の話だけに限定しないが、他人の行動原理を推察することで、それが自分の行動原理と交われば、理解できるかもしれないと思える気もする。理解できれば、本当は理解できるものなのだなと、主張が変わる。持論なんてものは意外と簡単に風化する。というより、崩すために構築していると言っても過言ではない。
だから嫌煙者は一度、この人にとっての煙草は私にとってのデザートと同じなのかなと、考えてみたらよいのではないだろうか。逆に喫煙者は、この人にとっての煙草は私にとってのゴキブリと同じなのかなと。さすがにゴキブリを口にしていると思われるのは抵抗感が強いが。
思考力は、思考をするために存在する。だから人は思考を止めてはならない。
大抵のことは遊びだ。
藤本正樹が席を立つ。
「俺、煙草行くわ。学生証置いていくから出席だけ付けといて」
「オッケー」
返事をしたのは朝野保彦である。彼は立たないらしい。竹本浩二も先刻の宣言どおり残るらしい。
「俺も行く」
そう言って連れ立って喫煙所に移動する。今の階段教室があったB棟のすぐ下に、喫煙者のための簡素なスペースが用意されていた。喫煙所というには少々寂れている。ベンチが二つ、灰皿が二つ。周囲は植え込みで囲まれており、数人を隔離するには十分な状況が整えられている。
今は授業時間だが、この時間に取っていない人間にとっては当然だが休憩時間に当たる。若者が三人ベンチを占領し笑い声を立て、院生か助教授か、少し年上の男性が端のほうに立って携帯電話を弄っていた。全体的な休憩時間に比べればずっと少ない密度だった。俺たちは植え込みの近くに腰を下ろして煙草を吹かす。
特に会話はなかったが、こちらにしてみたら先ほど鷲見桃子と会見してきたばかりで、つまり彼女と藤本正樹が喧嘩中であることを知らされている身である。鷲見桃子の露骨な嫌悪感で、彼女自身にその要因を聞くことはしなかったが、藤本正樹のほうはどうだろうか。彼らの痴話喧嘩により厄介な役回りを押し付けられたのは確かなことで、一方では軽井沢で休暇などという贅沢な夏の過ごし方を約束されたが、その喧嘩の要因を知るくらいの権利も、少なからず俺にはあってもいいだろう。
そう考えるのは、傲慢だろうか。
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