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「奈美とはどれくらいだっけ?」

 鷲見桃子の声で我に返る。いつの間にか長くなった灰が、自重で落ちる。灰皿の上にかざしておいて良かった。

「えっと、四月の飲み会のあと、ちょくちょく二人で会ったりして……、だからちょうどひと月半くらいかな?」


「まさか奈美に彼氏が出来るとは思ってなかったよ」鷲見桃子はどうしてか、にこにこと笑った。「あの子のことよろしく頼むからね」

「え? うん。もちろん。だから、正樹のことも頼むよ。あいつ、あれでいて脆い人間だから」


 藤本正樹の外見は他人にいい印象を与えるものではない。金に近い茶髪を後ろに撫でつけ銀縁の細い眼鏡を掛けており、シャツはいつも着崩していて歩き方は粗暴だ。それなりに付き合えばそれがただの見せ掛けに過ぎないことはわかるのだが、大抵の人間はまず関わろうとしない。彼の人生において何が起こり、なぜ彼がそうした露骨な威嚇行動を取っているのかまでは知らないが、心底から柄の悪い人間でないことは確かだろう。


 彼とは大学入学時、外国語のクラスが同じになったことで知り合った。その頃から彼は安いドラマのチンピラ風情をかもしていたのだが、意外にも人懐こい笑みを見せる男だった。しかし一方で人の懐には深く入り込もうとしないあたりが気に入ったのだと思う。世の中にはずけずけと人の領域を踏み荒らす人間が多すぎる。


 藤本正樹の交友関係はその外観と性格により、狭く浅いものだった。俺とも、最初からこのような間柄であったわけではない。ただひとつ、困難をともに越えただけであって、そういった仲間意識というものがどこか人と人を強力に結びつけたのだろう。全て推測に過ぎないが。


 大学一年の冬、俺と藤本正樹は、何をする途中だったかまでは忘れたが、彼の運転する車で猫を一匹轢いた。それが野良猫であったならば、変な話だがまだ良かった。命を奪った以上全く良くはないのだが、少なからずそうであれば俺と彼はその猫を埋めて供養し、時折思い出して無念に浸るという人生を送っていたことだろうとは思う。だがその猫は、よくない人間の飼い猫だった。この場合の「よくない」とは、俺にとって都合が良くないと言う意味もあるし、社会的に見て善くないという意味もあった。つまり、ヤクザの飼い猫だった。より正確を期すならば、ヤクザの愛人の飼い猫であるが、意味は同じだ。


 右も左もわからない十八そこそこの若者二人にとって、スーツ姿のヤクザたちの威圧感といったらなかった。事務所の構えは一般的なものにカモフラージュしていたが、そこを支配する空気の重さは尋常ではない。二人して正座をさせられ、頭の上を煙草や罵詈雑言が飛び交っていた。


 それが向こうにとっていい取引であったかは知らないが、結局は藤本正樹が舎弟になることで事態は収まった。相手にしてみれば新しいペットくらいの感覚だったのだろう。まさか本当に飼いならすなんて真似はしなかったが、彼は当時から未だに怪しい仕事をやらされたりしている。猫が犬になったくらいの認識なのかもしれない。


 鷲見桃子の耳にも入っていないだろうから、これは本当に俺と藤本正樹だけの秘密である。当時は知り合いですらなかったのだから当然だが、今でも口が裂けることはないだろう。何よりこの恋人の父親は弁護士である。このときは知らなかったが、警察のお偉いさんと繋がっているわけだし、それでなくともタレント弁護士である自分の娘の恋人がヤクザの末端だと知れば、世間体を気にして即座に切り捨てたであろうことは想像に難くない。後々考えれば鷲見連太郎は娘に対して大した愛情を抱いてなかったのだから、自分の保身のために娘の幸せを奪うというこの想像はなかなか現実的だったと思われる。


 そういう事情があったから、鷲見桃子と藤本正樹の喧嘩の要因はここにあるのではないだろうかと、俺には見当が付いていた。秘密とは案外容易に露見するもので、どれだけうまく繕っているつもりでも頭隠して尻隠さずという状況になっていることもままある。


「知ってる」

 鷲見桃子の言葉が、まるで思考を読み取ったかのように思われ、情けないくらいに狼狽した。彼女は読心術を持っていたのかと、一瞬本気で考える自分さえいた。しかし冷静になればそれは、先ほどの俺の言葉に対する返事でしかなかった。


「正樹は何でも一人で抱え込もうとするけど、それじゃいけないんだよね。私も何でもかんでも正樹に押し付けようとしちゃったから、反省してるんだ」

 どこか独り言のような、自分の中に埋没していく気配を感じる。


 詮索はしない。


「泊まりの件は任せてくれ。確かに頼まれたよ」

 鷲見桃子がにこりと笑う。

「おう。頼んだよ」


 円満な空気だったが、そこではたと疑問が湧く。

「あれ、でも鍵とか持ってるのか?」

 その愛情希薄な親から、別荘の鍵をいただけるものだろうか。

「お父さんから直接は貰ってないけど、この間合鍵作っちゃった」

「おいおい大丈夫かよ」自信満々な笑顔が怖い。「ばれないか?」


 俺の不安をあざ笑うかのように、その笑顔は崩れない。

「絶対にばれないから安心して」

「言い切れるものかね」

「それが言い切れるのよ。なんと言っても、両親揃って仕事で海外に行く日を選んでるんだから。航空券まで確認したよ。七月二日から。よろしくね」

 女というのは、大した生き物だ。

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