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 ほかの女性と比べて大人しく、小柄なこともあって全く視界に入っていなかった。そのときは自己紹介も受けたはずなのに名前を一文字も思い出せなかったのだから、笑える話だ。


 神崎奈美はぶどうサワーの入ったグラスをゆらりと回しながら、すでに陽気と見え、にこにこと微笑んでいる。

「はい?」

 親睦を深める会にも関わらず妙に他人行儀な、外向きの声で反応を示してしまった。コミュニケーション能力というやつがあるが、俺はそれが低いほうだろうと自分では思う。実際どうなのかは他人が決めることだから知らない。


 神崎奈美はまるで「張り付いて離れないんです」とわざわざ宣言しているかのような、どこか胡散臭い笑顔のままで話を繰り出す。

「鈴木さん、ですよね」

「ええ。鈴木一です」顔を真正面から突き合わせていたのに、二時間経って再度名乗ることになるとは。と思いつつも、先ほど言ったとおり俺も彼女の名前がわからなかった。とはいえほとんど素面しらふに近い俺にとって、お名前はと改めて聞くのはどこか気まずい。「鈴木ですよ」


「二回言わなくても大丈夫ですよ」と彼女が楽しそうに言うので、

「知ってました? 今ので実は三回目なんですよ」


 俺もつい笑い返してしまう。

 それだけのきっかけだったが、お互いほとんど孤立した状態だったこともあって、話が続いた。酒を煽って、照れながら名前を聞いたのが最初の会話だ。


 神崎奈美はもともと鷲見桃子の幼馴染らしく、小中をともに過ごし高校で離れたが、こうして大学で再会したという。彼女曰く、記憶の中の鷲見桃子とは随分印象が変わった、ということらしい。というのもちょうどその離れていた時分に鷲見桃子の父親である鷲見連太郎がテレビ出演を始め、もともと良かった羽振りがさらに良くなり、娘はしっかりその恩恵を受けていたようで、はっきりといえば少々性悪さが増したと、内心思ったらしい。


「桃子のことを嫌いになったわけではないけど」当然この鷲見桃子の話に関しては二人だけのもので、声もひそやかである。「昔のほうが好きだった。変わっちゃった気がする」

 悲しげに、視線を下げる。


 全身ブランド品。何かと金で解決を付けたがる。ここにいる自分を含めた三人は別としても、周囲にいるのもおこぼれを頂こうとほくそ笑んでいる連中ばかり。昔の鷲見桃子は、根本的には「金持ちの思考」を持った人間だったが、それでももっと人徳も持っている人物だった。


 というのが神崎奈美の言い分だったが、問題の「今の鷲見桃子」も「昔の鷲見桃子」も、俺は余り知らない。賛同してやるのが人として優秀な行為なのかも知れないが、どうにもその気にもなれなかった。


 慣れないビールで口を潤し、

「つまり今の鷲見さんの周りにいるのは、今の鷲見さんのことを都合がいいと思っている人間で、昔の鷲見さんの周りにいたのは、昔の鷲見さんのことを都合がいいと思っていた人間だっただけ、という話では。変わった、と思うのは、結局その人のエゴでしかないと思うんだよね。昔と比べて変わってるのが自分かもしれないとは考えないわけだから。よくいるでしょ。昔好きだったバンドを新譜で久々に聴いたらなんか変わったとか言い出すやつ。それと同じだと思うけど。変わるのは相手だけだと思ってる」


 神崎奈美は表情を変える。ころころと表情が変わる人間は、本当に感情も同等に変異しているのだろうか。しかも鷲見桃子とは違い、彼女のそれは少々見せかけのようにも思われる。ポーズでしかないというような印象が、どことなく感ぜられる。ひょっとするとこの話題自体、神崎奈美にとってはどうでもいいことなのではと勘ぐるくらいには、作り物めいて見える。


 ただ神崎奈美が実際に今何を考え、どう思っているのかは、俺にはわからない。思考が声に変換される瞬間、その思考はすでにしぼみ始めている。新鮮な状態の思考は脳内にしかない。しかし読心術なんて誰しもが使えるわけでもなく。想像するしかないが、想像は想像でしかない。この思考自体が無駄だと思って、煙草を吹かして待った。


 ぶどうサワーに一口つけると、まっすぐにこちらを向く。

「つまり鈴木くんからすると、私が変わっているかもしれないじゃないかという意見なわけだよね」


 長く考えた末にその確認をしてくるとは、少々予想外である。酔っているならば仕方ないと思ってやることにして、懇切丁寧に講釈を垂れる。


「当たらずとも遠からずかな。ううんと。実際に鷲見さんが変わったのかもしれないけど、他人に対して安易に変わったなんていう人間は好きじゃないんだな、俺は。変わった、変わってる。そういうこと言う人間って要するに自分は絶対的に不変だと勘違いしているわけでしょ。それは結局今言ったように、相手が相手自身のせいで自分にとって都合が悪くなったと思ったから、表面上、あの子変わったねってうそぶいてけ者にしてるだけじゃないの。私の正義ってやつを振りかざしているだけにしか思えないんだよ」


「じゃあ、私は私の正義によって桃子を昔より悪くなったと思っているだけだと、こういうこと?」


「それは知らないよ。俺はそう思うというだけで、神崎さんがどう思うかは神崎さんの自由でしょ? ただ、変わったとか、変わってるねなんて簡単に言っちゃうのってどうなの? というのを、論点が摩り替わっているのを承知で、議論したいのです」弱いくせについ調子付いて酒を煽っていたため、このときにはだいぶ思考が散漫になっていた。酔っていたのは自分のほうだ。「他人に寄り添おうとする人間が精神的に美人であるみたいな風潮があるけど、人間同士、別の思考を持った生き物が根本から理解しあうなんて無理なんだからさ、普通とか普遍とかいった概念を持ち出してきて他人を批評する時点で俺は狂ってると思うね。理解した、という思考自体思い込みでしかないんだよ」


「鈴木くんって」なかなかどうして、彼女のほうも酔いが回っているのは事実らしい。にこりと微笑み、「変わってるね」


 ここでそう言える人間というのは、貴重に思えた。大抵は愛想笑いで敬遠するか、馬鹿みたいに批判してくるかのどちらかだ。

 

 楽しくなってへらへらと笑っていたが、

「でもね」という神崎奈美の一言で、視線がそちらに向く。「なんと言われようと、桃子は変わったと思う」

 俺は、この話題は避けるべきだと本能的に感じる。


 思考を持つ生き物同士、根っこから相容れることはない。ならば、余計な詮索はするべきではない。抱える事情を聞いて、わかるわかる、という中身のない同調をする寒々しさといったらない。「理解してあげた」「理解してもらった」と思えるハッピーな脳みそをお互いが持っていればいいが、必ずしもそうではないのが世の中だ。


 もしかすると神崎奈美はここで掘り下げてほしかったのかもしれないが、そんなことは俺の存ぜぬところである。


「神崎さんって映画好き?」突然の話題の転換に対し思いのほか驚きも呆れも残念がりもしないところを見ると、やはり本当に彼女にとって鷲見桃子の話題などどうでも良かったのかもしれない。「俺、月に二本は見るようにしてるんだ」


 神崎奈美は微笑む。先ほどのような胡散臭さはない。一歩は近づけたと考えてよかろうか。そう思って、そうだとしたら嬉しいのか? と自問自答した。このときにはすでに手中にあったということだろう。それが策略だったのかどうかは判然としないが。


「私は週に一本。勝った」打って変わって、俺の嫌いな子どもっぽいところのある人間だなと感じる。ただ結果として、ここでワンクッションを置いたことによって、より一層深くのめり込むことになるのだが、知る由もない。「どんな映画が好きなの?」


「そうだな。改めて考えたことはないな。広く浅く見るタイプだから。でも強いて言うなら、どこかに考える余地のある作品は好きだね」

「考える余地?」


「この行動は一体どういう感情から為されたのか。この会話にはどういった意味があるのか。そういうことを考える余地があると観ていて楽しい」

「他人とは理解しあえないと思ってるのに?」くすくすと笑みがこぼれる。「やっぱり鈴木くんは変だよ」


「違う違う。俺がそういったところに注目するのは、相容れないと思っているからこそなんだよ。擬似的にでも共感しようとするわけだ」


「この行動はこういう感情から来ているのかもしれないと想像して、それが結末に向けて自分の思っていた通りだったら、もしかして人間は理解しあえるのかもしれない。そう考えを改められるってこと?」


「そういうこと」この、言わんとするところを先回りできる聡明さは、十分に好みだった。次第に何に酔っているのか、不鮮明になってしまいそうだ。「神崎さんは? どんな映画が好きなの?」

「私?」ううん、とひとつ唸る。「私は逆に、何も理解できないほうが良いな。スプラッタとか。そうね、バットマンのジョーカーとか、ああいう何考えてるのか全然わからない大悪党みたいなキャラクタが出ている映画が好き」


 意外な趣味である。

「どうして?」


「理解できることのほうが怖いと思うのよ、私。例えばミステリやサスペンスを観ていて、猟奇殺人を行う人間の心理、あるいはバックボーンみたいなものが垣間見えたりするでしょ? それって、この殺人鬼にもそうならざるを得ない悲しき理由があるのです、と賛同を得ようとしているわけじゃない。ああ、こんなに辛い過去があったら仕方ないかもしれないと、そう思わせるための演出でしょ? そんなもの、必要ないと思うのよね」

「どうして? そう思えるほうがストーリーとして完成度が高くならない?」


「完成度の問題じゃないの。なんていうのかな。それこそ鈴木くんが毛嫌いしている普遍的な人間、共感の押し売りをする人たちがその映画を観たとするでしょ? これは確かに普通じゃない猟奇殺人だけど殺人鬼には殺人鬼足りえる理由があったのか。もともとは普通の人間だったわけだなと、そう納得してしまうと、どうなる?」

「どうなるって」彼女の言い回しにも自分に似た毒を感じる。「もしかして、自分に落とし込んでしまうって言うわけ?」

「そうなのよ」

「そんな馬鹿な」


「馬鹿と思うでしょ? でも世間で話題になっている通り、ゲームやアニメ、漫画の影響から犯罪に手を染めたという人間も少数だろうが確実にいると思うの」

「そりゃあ、全くいないとは思わないけど。それだからと言って映画の殺人鬼に何も背負うものがないほうがいいというのは、極端すぎやしない? あんなもの、娯楽に過ぎないんだ」


「まあこれは私の好みの問題、考えの話だから、残虐な描写に対し理屈を付けるなとか、そういう描写のあるものは全て規制しろとかって、そこまで議論を発展させるつもりはないよ。好きな映画を聞かれて、その理由を聞かれたから、披露したまでで。一部が全部とも思ってない」


「ねえ」俺はその言い草に少々引っかかるものを覚える。「つまり神崎さんは、その少数、つまり一部のほうにいるということ?」


 真面目腐った表情でもしていたらしい、神崎奈美は一瞬耐えたが、すぐに吹き出した。その笑い声が今までの会話の中で最大音量だったため、ほかの六人の視線がこちらに向くのがわかった。


「二人っきりで何の話してんだよ」

 誰が言ったか、そうして俺と神崎奈美は群集に溶け込むことが出来たのだ。

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