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「一足早く、夏の休暇を軽井沢で過ごさない?」


 鷲見すみ桃子からそういった誘いを受けたのは、梅雨真っ盛り、六月の中旬のことだった。大学の空き時間で、二人で徒歩五分程度の距離にある喫茶店の喫煙席に向かい合い、すっかりぬるくなったコーヒーを啜っていたときのことである。


 彼女は携帯から視線を上げずに、例えば何か、お腹すいたなとか、眠いなとか、そういうことを話すような口調で、なかば独り言のようにその言葉を零したから、これを「二人っきりで」「情熱的に」などと勘違いするようなことはいくら浮ついた大学生の一人としても、有り得なかった。そもそも俺にも鷲見桃子にもそれぞれ恋人がいるし、それでなくとも鷲見桃子をそういった目で見たことはない。それはお互い認識していることである。

 

 ということは頭の中で導かれる話の続きは、

「いつもの連中で?」

 この答えだった。

 いつもの連中というのは、俺と鷲見桃子を合わせて全部で八人。残念とも思わないが、二人きりには程遠い数字である。


「そう、いつもの連中で」言い方を真似して楽しくなったのか、こちらに視線をくれると笑みを見せる。「れんちゅー」


 甘ったるい声音とそれを発するに相応しい甘い容姿の女が、けらけらと大きな笑い声を立てている。ウサギの被り物をしているのに戦隊ヒーローのスーツをまとっているような違和感である。要するに、もったいない。どちらかに寄せれば良いのに。世間の男たちはこういう違和感を「ギャップ」と言い換えるらしいが、俺には良くわからない。


 いつもの連中、のほかの構成員全てをここに列挙しても混乱するであろうからひとまず割愛する。そいつらは今まさに勉学に勤しんでいることだろう。俺と鷲見桃子がお互い異性として意識したこともないのに二人きりでコーヒーを啜っているのは、そういう背景の下に成り立つ。つまり、たまたま。


 俺たち八人はもともと、四人と四人の、別のグループだった。そのうち、向こうの四人の一人であった鷲見桃子と、こちらの四人の一人であった藤本正樹が男女交際の仲に発展したのをきっかけに合流した。二ヶ月ほど前、今年度の初めのことだった。だから、授業を合わせようなどと画策する暇はなかった。三年生にもなれば取得単位の都合や専攻科目の選択によって受ける授業にばらつきが出てくるものである。だからこれは本当に単なる偶然によるお茶会であって、俺には何の意思もない。


 だから別荘へのお誘いなど、そうした「たまたま」の上で一緒にコーヒーを飲んでいる人間よりも先にするべき人物がいるわけだ。前述の通り、鷲見桃子は藤本正樹の恋人なのだから。彼からそんな話を聞いた覚えはなかった。

「正樹と喧嘩した?」

 こうした疑問に到達するのも、そうした事情をかんがみれば至極当然のことだろう。


 れんちゅー、を楽しんでいた鷲見桃子は露骨に嫌そうな表情をした。そのころころと変わる顔は他人と比べて小さいほうで、先ほどのものより少し控えて微笑んでいればモデルのプロフィール写真かなにかのようにさえ見え、つまり一般的に比較して十分可愛い部類なのだろうが、普段から滲み出ている子ども染みた仕草や思考のために女性として俺の好みの範囲には全く入らない。今思えばそれはいいことだった。そうでなければ藤本正樹の恋人だと周知の相手と二人きりというこの状況は、居心地が悪くて耐えられなかったろう。略奪を働きかける度胸も根性もない。


「鈴木くんって本当に単刀直入に物を言うよね」肩をすくめて見せるが余り様にはなっておらず、子どもがアメリカのコメディドラマを見てその真似をしているような仰々しさがある。「まあ、そうなんだけどさ」


 かと思うと、コーヒーカップを片手に頬杖を突きながら暗い水底を覗き込むその俯き加減が、人生に疲れたスナックのママのようでもあった。

「ふうん」ここでどうしてと聞くのは野暮だろうなと判断させる程度に彼女は露骨である。「それで、俺から皆に声を掛けてほしいと」

「そういうこと。察しが良くて助かるよ」


「でも別に、皆で揃って行くこともないんじゃない? それこそ正樹と仲直りするために二人きりで行こうよって誘えば良いじゃん。俺たちが付いていくと却って邪魔なんじゃないかな」

「そんなことないよ。というか、二人きりで行こうって言えていれば最初からそうしてる。出来ないから皆を誘うわけだし、鈴木くんにそのお誘いを頼んでいるわけで」


「まあ、そうか」ご機嫌斜めな言い草から察する限り、至極当たり前のことを言ってしまったようである。「別に、良いけどさ。でも俺から話がいくっていうのも、正樹としては余り気分が良いことじゃないんじゃない?」


「とりあえず別荘までつれてきてくれれば、あとはタイミングを見て私が何とかするから」回答としては斜め上だ。そのことに彼女自身も気が付いたのか、「ともかく私は私の判断で鈴木くんにお願いしてるの。頼まれてよ」


 コーヒーを啜ったのは、もうこれ以上は聞かないでねという拒絶反応のように思われる。だから二の句は継がない。


「わかった。俺から声を掛けるよ」

「ありがとう。鈴木くんが話のわかる人でよかったよ」


「どういう事情かは知らないけど、二人がいなければ俺も奈美と付き合っていないからね。きっかけの二人には仲良くいてほしいんだよ」


 四人と四人の男女が、二人の交際をきっかけにして合流するに至るとき、誰が言い出したのか顔合わせをしようという話になった。顔合わせと言っても、改まって「どうぞよろしくお願いいたします」と深く頭を下げるような律儀なものでは当然ない。大学生ともあれば、他人と親睦を深めるときは良くも悪くも大抵飲み会である。


 それが四月の二週目の金曜日だったことは、かろうじて記憶に残っている。そんな些末な情報を未だに管理しているから、もっと大事なことを次々に失っていくのだろうなと思わないでもないが、そんな愚痴は置いておく。


 チェーンの居酒屋の座敷席を手前に男四人、奥に女四人という配置で陣取り、各々ビールやサワーを飲みながら簡単に自己紹介をしてのち、すでに二時間ほど雑談をしていた。酒の弱い俺はぐびぐびとジョッキを空けていく別人種を眺めながら、その輪に溶け込めない自己嫌悪を抱いたりして、内心では早く帰りたいと何度呟いていたことかわからない。


 次の一杯を飲んだら辞去しよう。そう思って無理にペースを速めたときに、

「あの」

 と声を掛けられ、自分の目の前にちょこんと女が座っているのに気付いた。彼女も最初から居たはずだから「気付いた」と言っては語弊があるが、ともかく声を掛けられてようやく俺は目の前の女を思い出した。


 それが神崎奈美である。

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