第四章 その距離に私は惑う

準備期間が欲しいのですが

 十月に入って、季節はすっかり秋になった。

 黒崎さんはあの日からも変わらず、時々書店に来店してくれている。これまでと違うのは、私に気付くと来客対応をしている時以外は、必ず声をかけてくれるようになったこと。

 今までも挨拶をしたり、少しだけ会話をすることはあったけど、明らかに会話の頻度も時間が長くなっている。もちろん、私の仕事に差し支えのない程度に切り上げてくれる辺りは、抜かりのない黒崎さんらしい。

 私はというと、まず黒崎さんの姿を見つけてはこっそり眺め、目が合ってしまうとその瞬間心臓が飛び跳ね、近寄ってくる黒崎さんを茫然と見つめるしかできない。

 話をしていてもドキドキと高鳴る心臓は止とどまることを知らず、いつも話し終わる頃には息すら切れそうになる。黒崎さんの態度は少し変化したのに、私自身は何の進歩もしていない状態が続いていた。


 そして、私は今、自分の部屋で携帯を目の前に固まっている。

 黒崎さんから久しぶりにメールがあったからだ。書店で会話をすること以外には特に何もなかったため、水族館のことも有耶無耶になったのかな……なんて思い始めていた。

 そこに、突然の水族館のお誘いメール。映画の時もこうだった。

 黒崎さんは、私が油断した頃を見計らってメールをしてくるのではないかとさえ思う、このタイミング。『行こう』と言ってくれた時に、きっと本当に実現させてくれるだろうと思ってはいた。この人は嘘はつかない人だと思ったから。

 でも、どこかで社交辞令という言葉が頭を掠めたのも確かだ。

 私の次の休みを問う内容。今回もとても簡潔だ。淡々としている文章なのに、黒崎さんのクスッと笑う様子が過ったのはどうしてだろうか。話す機会が増え、自分に向けられる笑顔が増えたせいかもしれない。

 あわあわしながら受け答えをする私を見て、必ず一回はクスッと笑っていく。その笑顔にまた私は倒れそうな程クラクラする。

 あの爽やかさは一体何だ。

 小さめなのに心地よく響くテノールの声に、私は足から力が抜けて座り込みそうになるし、たまに香る大人っぽい匂いも私には猛毒にしか思えない。

 困ってることはもう一つ。

 私の休みは三日後の水曜日。たったの、三日。嘘は言いたくないから、そう答えるべきだとは思うけど……。万が一、その日に決まってしまったら。心を含めて、諸々の準備期間が無さすぎる。


 でも、流石に黒崎さんは忙しそうだから、三日後に予定を組むなんて無理だよね?

 そうだ、そうに違いない。


 私はそう思い至り、素直にその旨をメールした。


 大丈夫だよね……?

 あり得ないよね?


 胸の前で指を絡めて、祈るような姿勢で返事を待つ。この時間が、本当に心臓に悪い。

 そして、ピロリンッと携帯が鳴り、返事が来るとは分かっていても小さな声が漏れてしまった。恐る恐るメールを開いてみる。


『では、三日後の水曜日、待ち合わせは〇〇駅前に九時で大丈夫?』


 ……あああああ、あり得ないっ!!!

 嘘でしょ⁉


「琴音⁉」

「ひゃい⁉ お、お母さん⁉」


 パニックになっている私の部屋の前に母が慌てて来たようで、心配そうな声で呼ばれてしまった。


「何かあったの? 大丈夫?」

「え、どうして?」


 私は慌てて部屋のドアを開けると、そこには予想通り心配そうにしている母が立っていた。


「どうしてって……今、何か叫んだでしょう?」

「え? 叫んだ?」


 もしかして、今の心の声は、口から出ていた?


「なな、なんでもないよ。ごめんね、大丈夫だから」

「本当に?」

「うん、ほんとに」

「それならいいんだけど……なんだか少し前にも琴音らしくない叫び声を聞いた気がするから、心配になって」


 前の叫び声……?


 私よりも少し背の高い母が此方を見下ろしながら、眉を顰めている。数秒、逡巡して思い出した。


 ……千絵さんからもらった雑誌!


「あれはっ」


 思い出したくもないのに蘇った表紙の言葉の数々。何も知らない母からしたら不自然に顔が赤くなっただろう。


「あれは?」

「っ……何でもないの! そう、あの日も、今日もなんだか喉の調子が悪くて!」


 どう⁉ 私にしては機転の利いた誤魔化し方!


「とってもよく通った声だったけど……まあ、いいわ。調子悪いなら、風邪薬飲んでおきなさいね」

「……はい」


 明らかに納得していない母はそれだけ言い残して立ち去ろうとしたのに、ピタリと足を止め振り返った。


「琴音、何か困ったら、お母さんに相談してね。お母さんもお父さんと恋愛結婚だったんだから、多少は相談に乗れるからね」

「はい……え? ちょ、な、な」


 振り返った母はそう言ってクスリと笑ってから、階段を降りていた。

 確実に、恋愛のことだと知られてしまったようだ。せっかく誤魔化せたと思ったのに。どうして叫んだだけで、恋愛のことだと分かったのだろうか。

 今度は私が納得できず、眉間にシワを寄せながらドアを閉めた。そして、テーブルの上に置き去りになっている携帯を見て血の気が引いた。


 ……返事、まだしてなかった!

 返事どうしよう。やっぱりそんな急には無理ですなんて、自分から休みを伝えておいて言えないよね……。

 了承の返事をするしかないよね?

 服とかどうしよう。また、千絵さんに相談したら間に合うかな。心の準備は、どうしたら出来るの?

 いやいや、早く返事しなくちゃ!


 私はグズグズと考えてしまってから迷っている場合じゃないと気付き、結局言葉少なに了承の返事をした。

 本当はメールもかわいいものにしたいんだけど、絵文字や顔文字を使うとか、かわいい文面にするとか、とてもじゃないけどできない。

 使い方が分からないこともあるし、文面も思い浮かばない。普段もかわい気がないのに、こんなところでもかわいくないなんて、黒崎さんはガッカリしているかもしれない。

 ……そもそもかわいさなんて求められてないかもしれないけど。


『デート』


 その言葉が頭を過ぎり、ふるふると頭を振った。その言葉を否定しないと、やっぱり精神衛生上良くない。でも、千絵さんや翔太くんに言われてしまった以上、意識しないというのは無理そうだった。

 とりあえず明日、千絵さんに相談しようと思いながら、寝る支度をした。

 でも、三日後のことが気になって、お風呂でのぼせてしまったし、ベッドに入ってから読んだ小説も集中できず、同じページを見つめたままだったりもした。

 あれこれ考えている時に待ち合わせが自宅の最寄り駅になっていることに気付き、かなり前にチラッと話しただけのことを覚えていてもらえたことと、そこを待ち合わせ場所にしてくれたことに、胸が熱くなった。

 そして、いざ寝ようとしても頭が冴えてしまって眠ることはできず、浅い眠りを繰り返しているうちに朝が来てしまった。

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