第三章 同行と位置付けさせていただきます
会って早々、許容範囲を超えました
そして、やってきた同行の日。
敢えて、本日を『同行の日』とさせていただきたい。そうでないと……『デート』と位置付けてしまうと、私は行くことができなくなりそうだから。
私は今、部屋の鏡の前に立ち、千絵さんにコーディネートされた姿でおかしなところがないか確認するため、くるくる回っている。
そもそも私の部屋に鏡なんて無かった。洗面所で顔を洗って、みっともない所はないか確認する程度で、お洒落に無頓着だったから。でも、何かを感じ取ったのか、つい数日前に母が私の部屋用に鏡を買ってきたのだ。
『どうして急に……?』と問うても、母は『ふふふ』と笑うだけで躱されてしまった。千絵さんにも母にも簡単に躱される私は、本当にチョロいんだろう。
……いやいや、今は母のことはどうでもいい。
部屋の時計を見ると、十時を過ぎたところ。待ち合わせは十三時。
早い……でも、不安だし、落ち着かないから、もう行こう。
「いってきます」
トンッと軽くサンダルを踏み鳴らし、いつもよりも緊張した声で告げて家を出た。
外は快晴。まだ秋晴れとまではいかないけど、真夏の空ではなくなった。纏わりつくような蒸し暑さもジリジリと焼けるような強い陽射しも和らぎ、季節の移ろいを実感する。
綺麗な青い空を見上げ、大きく深呼吸をした。緊張は、してる。ドキドキして心臓は痛いし、ふわふわしていて未だ実感は湧かない。
どんな一日になるのか、私は黒崎さんと長い時間を過ごせるのか、退屈だと嫌がられたりしないか……。不安と恐怖は計り知れない。いっそ回れ右をして、自分の部屋に逃げ込んでしまいたいとも思う。
でも、今日を逃がすと二度と黒崎さんと出掛けられないのだと思えば、こんな私にも少しだけ勇気が出せる。
待ち合わせは書店のある最寄駅。その近くにある映画館に行くことになっている。その提案を聞いた時、なんとなく自分のテリトリー内でホッとした。
本当は、せっかくだしランチも一緒にというお誘いもあったけど、黒崎さんを前にして食べ物が喉を通るわけがない。有り得ない選択を全力で拒否してしまった。
それなのに、落ち着かなくて午前中にも拘らず出てきてしまった私は、相当のバカなんだろう。だって、人生初のデー……違う。同行なんだもん。
どうすればいいかなんて、まったく分からない。男性と二人でいる時に、どう振る舞うことが正解か分からない。マニュアルが欲しいくらい。
でも、そんなことどんな本にも、どんな雑誌にも載っていなかった。……千絵さんから貰った雑誌によって、おかしな情報は入りそうになってしまったけど。
私の読んできた小説では、皆スマートに二人で過ごしていたし、恋人でもなく友達でもない男性とのシーンはあまり記憶にない。
あれやこれやと思案しても、私にいい考えが浮かぶはずもなく、あっという間に電車は待ち合わせの駅に着いてしまった。改札を抜けて、目印にと約束しているオブジェの前に立ってみる。
「……いくらなんでも、早すぎるでしょう」
周りを見渡すと、私の他にも何人か待ち合わせしているであろう人達が目に入り、思わず声に出して呟いてしまった。ははっと自嘲気味に笑いが零れ、何とも言えない気分を飲みこもうと、再び青空を見上げてみた。
さて、これからどうしようか。
昼食の時間を挟むことになるけど、一人でお店に入ったことなんてない。時間を潰せるようなカフェが何軒かあるけど、お洒落な人達ばかりで、私は場違いに違いないと思うと入る気にはなれなかった。
どうせ食事をする気分にもなれないからいいや、と割り切って、私は近くにあったベンチに腰を下ろしてぼんやり待つことにした。
そして、十二時半。
私はベンチからオブジェの方へ移動し、いざ待ち合わせへと意気込んだ。喜ぶべき時間が始まろうとしているのに、私の気分は断崖絶壁に立たされてるようだ。もう後には引けない。
はふっと妙な息を漏らし、自然と改札がある方へと視線は向く。
待つこと、約十五分。
「藤原さん」
「へ?」
気を張って、自分の周りの酸素が無くなっているような息苦しさを感じて待っていたが、まさか背後から声を掛けられるとは思いもしなかったため、かわいくない声が出てしまった。
勢いよく振り返ると、穏やかな微笑みを浮かべた黒崎さんが、手を軽く上げながら足早に近づいてくるところだった。
「待たせてごめんね」
その台詞……!
「だだ大丈夫です! 全然待ってないですっ」
そんなドラマや本の世界の台詞を現実に聞くことになるなんて!
しかも、今日もかっこよすぎる……。
今まで仕事帰りに書店に寄ってくれたからか、スーツ姿しか見たことがなかった。初めて見る私服は、カジュアルなのに大人の落ち着きがあって、とても似合っている。
リネン素材の七分丈のネイビージャケットに、インナーにはボーダーのTシャツ。白いアンクルパンツが爽やかだ。
「でも、少し顔が赤くなってる」
そう言って、目の前に立った黒崎さんは、あろうことか私の頬にちょんと指で触れた。僅かに細められた切れ長の目に色気を感じてしまい、気を失いそうになる。
……死ねるっ!
「くくく、黒崎さん?!」
「ん?」
ん、じゃなくて……!
怖いっ、大人って怖い!
なんて言えばいいか、どう反応すればいいかが分からず、頭の中が真っ白になって固まっていると、黒崎さんの指はあっさり離れ、その手は下へ下ろされた。
もう触れられていないのに、頬が熱いし、指の優しい感覚まで残っていて、ますます私の顔は赤くなっているはず。
「髪、切ったんだね。眼鏡も……?」
「は、は、はいっ。髪は短くして、コンタクトに、してみました……」
気付いてくれた!
こんなにもいろいろと変えて、私って認識されなかったらどうしようと不安だったけど、ちゃんと私を見つけてくれたし、変化にも気付いてくれた。もう、それだけでも満足かも……。
「かわいいね」
「……え?」
えっと、何か幻聴が聞こえた気がする。
「よく似合ってるよ」
パクパクと金魚のように口を開け閉めしていると、それがおもしろかったのか、黒崎さんはクスッと小さく笑ってポンポンと私の頭を二回撫でた。
ああああああああ、あり得ないっ。
もう、むり……。
私には同行ですら難易度が高いようだ。微笑まれただけでも心臓が鷲掴みされて苦しいのに、頬に触れて「かわいい、似合ってる」なんて言葉をもらって、頭をポンポンするなんて許容範囲を超えた。
「じゃあ、行こうか」
「へ?」
「へ、って。本当、おもしろいね。ここにいても仕方がないし、そろそろ映画を観に行こう」
私の妙な返事にクスクスと笑いながらそう言って、黒崎さんは私の背中を優しく押してくれた。
熱くなっている身体が、更に燃え上がりそうだ。焦げ付いて、灰になってしまうかもしれない。これは、エスコートっていうものなのかな。自然にそういうことができる黒崎さんは、やっぱり大人だ。
もしかして、こういうことに慣れてる?
当たり前だよね。黒崎さんだって、これまでお付き合いした人もいるんだろうし。
……待って。そもそも、今、恋人さんはいないの?
優柔不断な私が映画の前売りを貰うことを躊躇ったから、仕方なく一緒に行くことにしちゃったのかもしれない。そうだとしたら、私の存在なんて迷惑極まりないのではないだろうか。
「あ、あの」
「ん?」
『彼女はいるんですか』って聞ける……?
もし、いたら?
そんな立場じゃないと分かっていても、ショックを受けてしまうだろう。私の小さな問いかけにも気付いて反応してくれる黒崎さん。本当に優しい人だと思うし、気遣いのできる人なんだと思う。この人の負担にだけはなりたくない。
でも、今日だけは……。今日だけは、私の我が儘を許して欲しい。ちゃんと立場を弁えてるから。
私にとっては特別な日であっても、黒崎さんにとっては大した日ではないだろう。行きつけの書店の店員とたまたま貰った前売り券で映画を観に来ただけ。そこに意味はない。
「なんでもないです……」
「そう?」
視線を落とした私の上で黒崎さんがまたクスリと笑った気がしたけど、私にはそんなことを気にする余裕なんてなかった。
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