第七章 鈴間屋アリスは痛みに耐える(3)

 アリスが目を覚ますと、冷たいコンクリートの床の上だった。

「ここは……?」

 上体を起こすとあたりを見回す。どこかの倉庫のようで、なんとなく見覚えがある光景にうんざりする。

 そうだ、車で白藤を待っていたら、突然助手席のドアが開いて、びりっと首筋に痛みが走ってからの記憶がない。

 もう、十中八九間違いない。

「くそ親父、いるんでしょ?!」

 大声をあげると、

「おはよう、アリス」

 シニカルな笑みを浮かべて、鈴間屋拓郎が現れた。立ち上がれないアリスの前にしゃがみこむ。

「くそ親父っ!」

 その胸ぐらをつかもうと、アリスが手を伸ばすが、

「おっと」

 拓郎は軽く言うと、後退。アリスの指先は空を切った。

「逃げるな!」

 怒鳴って、腕の力だけで這い、近づこうとするアリスに、

「まったく、無様だな」

 立ち上がり、見下ろした状態で拓郎が続ける。

「私が作ったものの中で、お前が一番の失敗作だよ、アリス」

 淡々と告げられた言葉に、体に入れていた力が抜けた。ぐっと喉の奥が詰まる。

 拓郎の視線が自分の下半身にむけられているのがわかった。動かない、足。

「うる、さいっ! うるさいっ!」

 止めてしまっていた息と一緒に、言葉を吐き出す。

 そうか、スタート地点で自分は父親に見捨てられていたのか。失敗作だと思われていたのか。そのあと、あんなに努力して、頭脳の方で頑張っても無駄だったのか。

 めまぐるしく脳内をかけめぐる、マイナス思考を頭を振って追い払う。

 そんなこと、今考えている場合じゃない。それに、

「あんたの言葉なんて、聞かないっ」

 この人の言葉で傷つけられたら泣いていいのだと、銀次が言ってくれた。帰ったら、自分を愛してくれる人がいる。だから、傷ついている場合じゃない。

「白藤についての話だとしても、か?」

 きっと自分を睨みつけるアリスの視線をものともせず、淡々と拓郎が言う。

「白藤を元に戻す方法についての話だとしても?」

「え……?」

 睨みつける瞳の力が弱まる。

「治せる、の……?」

 嘘に決まっている、と心の冷静な部分が警鐘を鳴らす。この男は諸悪の根源だ。こいつが、せっかく手にいれた実験体を元に戻す方法なんて提案してくるはずがない。信じちゃいけない。

 そう思う一方で、本当だったらという期待が捨てられない。もしも拓郎の話が本当で、それを嘘だと断定して切り捨てたら、自分は一生後悔する。

「治す方法を教えてやらないでもない」

 拓郎は白衣のポケットから、USBメモリを取り出す。それを指先でつまみ、軽く振りながら、

「ここに私がまとめたXのデータが全て入っている。どうせシュナイダーも研究してるんだろ? それとこれを合わせたら、特効薬ぐらい作れるさ」

「絶対ね?」

「絶対とは言い切れないな。実験に失敗はつきものだ。だが」

 そこでにやり、と彼は笑う。

「アリス、お前に選択肢はあるのか?」

 百パーセント確実でないからといって、そのデータを要らないと強気で言える立場にはない。

「要求は?」

 代わりに交渉を進めていく。

「何か目的があるんでしょう? あなたが実験体である白藤を手放すとは思えない。なにが、対価なの?」

「お前だよ、アリス」

 拓郎が笑う。嬉しそうに。

「私?」

「白藤はダメだ。ちっともXに乗っ取られない。もう要らない」

 おもちゃに飽きた子供のように宣言する。

「私も考えたんだ。アリス、お前を媒介にすればいいんだと。お前には、美里の血が流れているのだから。最初からそうすればよかったんだ。白藤の時の失敗は、生きた人間を使ったことだ。死体にXを使うことも調べた! 死体でも、Xをいれれば動きだすんだ! つまりだ、アリス。お前の遺伝子を元に美里を再生し、お前の死体にXをいれればいいんだよ!」

 興が乗ってきたのか、だんだん拓郎の言葉は早口に、そして高くなってくる。

 父親に必要とされることが、認められることが、幼い頃からの夢だった。それが、こんな形で叶うなんて。

 いや、違う、認められているわけではない。自分は代替品だ。母親の。

「……そっか」

 科学に疎いアリスでも、拓郎の話が夢物語なことは想像ついた。Xには破壊衝動がある。百歩譲って、仮に美里の体が出来上がったとしても、Xをいれた段階でそれはただの殺戮マシーンとなるのだ。それでも、拓郎はその夢物語を信じ、手に入れようとしてる。実の娘の命を代償に。

 いや、失敗作の有効利用でしかないのだろうか。

「もしも言うことを聞いたら……もうXを世間に放たない?」

「ああ、白藤はもう用済みだからな。Xを放っているのは、白藤を完全体にするためだけだし、メタリッカーがいなくなればどうでもいいな」

 本当に興味なさそうに彼は言う。

 この人は、どうしようもない。あれだけの人を傷つけたのに、それはただの実験に過ぎないのだ。

「……わかった」

 ゆっくりと息を吐きながら、アリスは一つ頷いた。

「あなたはそのデータを鈴間屋に送って。それからXを全て廃棄して。私のことは捕らえたままでいいから。それを見届けたなら、私はあなたに従う」

「……いやに素直じゃないか」

「もう、疲れちゃった。あなたに振り回されるのには」

 その返事に何を思ったのか、拓郎は楽しそうに笑う。

 ひとしきり笑ってから、アリスに近づくと、再び目の前にしゃがんだ。

「交渉成立だな、アリス」

 そうして、アリスの顎に手を伸ばしかけたところで、

「触るなっ!」

 バンッと派手な音を立てて開く扉と、鋭い叫び声がそれを遮った。足音とともに、人影が近づき、驚いた顔をしている拓郎を蹴り飛ばした。

「お嬢様! 大丈夫ですか!」

 自分がふっとばした相手には見向きもせず、入ってきた人物白藤銀次は、アリスをそっと抱え起こす。

「白藤、お前、なぜここがっ」

 口の中を切ったのか、唇の端から血を滲ませながら拓郎が声を上げる。

「これ」

 答えたのは、アリスだった。胸元のネックレスを指でつまむ。

「GPS付きネックレス。あなた、本当私に興味ないのね」

 改めてそれを自覚し、ため息をつく。

「社長の娘だから何があるかわからないからって、六歳の時から形は変えつつもずっとシュナイダーに持たされてるの。外されてたらヤバかったけど、あなたがそんなこと知らなかったから助かったわ」

 父親に興味を持たれていないことを、こんなに感謝した日はない。

「遅くなってすみません、お怪我は?」

「大丈夫。時間さえ稼いでおけば、来てくれるって信じてたから」

 にっこりとアリスが微笑むと、銀次は少し視線を逸らした。パニクって、GPSのことをすっかり忘れ、大騒ぎしたことはできれば内緒にしたい。

「それより」

 アリスの視線が拓郎に向く。銀次は軽く頷くと、そっとアリスから手を離し、立ちあがった。

「年貢の納め時ですよ」

 銀次が近づくと、拓郎は舌打ちして片手を上げる。

「忘れたのか、私にはXが」

 言って指を鳴らす。

 だが、何も起きない。

「え、あれ?」

 何度、繰り返しても同じことだ。

「裏に待機してたXなら先にぶっ倒してきた」

 思わず鼻で笑う。まったく、今日一日でどれだけ働かされたことか。

「なっ」

 あっけにとられたような顔でこちらを見てくる鈴間屋拓郎を見据える。

「諦めろ」

 あんたのペットはもう居ない。

「責任をとれ」

 ばかばかしい世界征服計画の責任を。

 言いながら近づく。

 拓郎は怯えたような顔を一瞬したが、すぐに高笑いをしだした。

 気でも狂ったか?

 怪訝に思っていると、

「詰めが甘いな、白藤。私を捕まえたいのならばそれでもいい」

 だがな、と拓郎は笑う。嘲笑う。とても、悪役然とした笑みだった。

 それになんだか、嫌な予感がする。

「私が捕まると、スズマヤコーポレーションはどうなる? アリスは?」

 言われた言葉に、頭を殴られたような衝撃を受ける。

 ああ、そうか。諸悪の根源は鈴間屋拓郎個人である、と銀次は思っている。しかしそれは、アリスの傍にいる銀次の考えだ。世間はどう思うか。スズマヤコーポレーション代表取締役社長の悪行は、スズマヤコーポレーションに対する評価に繋がる。

 会社がなくなったとき、アリスはどうするのか。

 父親が犯罪者となったとき、娘であるアリスはどうなるのか。

 そんなこと考えなかった。

 そうか、そうしたらお嬢様は。

 あと少し、手を伸ばしたら拓郎が捕まえられる場所にまできても、銀次は拓郎を捉えることができない。

 これでは結局、アリスを守ったことにならないのではないだろうか。

 そんな思いが胸を過り、

「バカじゃないの?」

 背後から聞こえた声が、それを遮った。

「アリス……」

「お嬢様」

 床に腰を下ろしたままだったが、しっかりと上体を起こしたアリスが不敵に微笑んでいた。

「バカじゃないの、くそ親父。ばーかばーか」

 子どものようにアリスは拓郎を煽る。

「何がバカだというんだっ」

「私がそれを考えなかったと思っているの?」

 怒鳴る拓郎をアリスが鼻で笑う。

「研究バカのあんたよりも、経営は私の方が得意なのよ? 鈴間屋の被害が最小限になるように、手は打ってあるのよ」

 そうして彼女は、いつも勝ち気な笑みを浮かべ、銀次を見る。

「だから白藤、気にせず捉えなさい」

 いつものように命令されて、勝手に体が動いた。

 逃げ出そうとでもしたのか、動き出した拓郎の腕を素早く掴む。

「いっ」

 痛かったのか、拓郎が悲鳴をあげるがそんなことは気にしない。腕の一本ぐらい、折れるぐらいで丁度いいだろう。

「アリスっ! じゃあ白藤はどうなるんだっ! メタリッカーだってばれたら世の中の研究機関が放っておかないぞ!」

 拓郎が叫ぶが、それはもうどう考えても負け犬の遠吠えだった。

「それで世界が平和になるなら安いもんですね」

 だからそれには銀次が淡々と答えた。

「そうはならないわよ、白藤。例え、会社を駄目にしても、貴方は守る」

 アリスが微笑みながら頷いた。

「貴方が私を守ってくれたように」

 その笑みがむず痒くて、視線を逸らす。

 拓郎はまだ納得してないのかぎゃんぎゃん叫んでいるが、銀次はそれを無視することにした。Xが居ない拓郎など、ただの中年おやじにしか過ぎない。

「しかし、お嬢様。どうするんですか、これ」

 警察に突き出すにしても、どう説明したものか。

「警察上層部にはちょっとしたコネがあってね」

「なんであるんですか」

「私がじゃなくて、シュナイダーがなんだけど」

「あの人、何者なんですか」

 正体不明すぎるだろ。

 思わず、呆れたように呟いた銀次に、アリスは軽く笑って、

「だから……うっ」

 言いかけて、笑顔を凍らせた。

「お嬢様?」

 顔色を青くして、口元を抑える。呻き声を漏らしながら、上体を折り曲げると、何度か咳き込んだ。

「やっ……いっ、なに、これ」

 胸元を右手で強く握りしめる。

 同時に銀次は知覚していた。Xの気配を。

 おかしい。さっき全部倒してきたはずなのに。こんなに近くに感じるなんて。

「あッ……、うっ」

 折りたたんだ身体で、痛みに耐えるような声をアリスがあげる。

「お嬢様!」

 拓郎を突き飛ばして、アリスに駆け寄るとすると、

「やぁぁぁぁ!」

 ひときわ大きい悲鳴を、アリスが漏らした。

「ぐっ」

 同時に、体内のXが強く暴れる。

 慌てて、アリスから距離を取りなおす。

「まさか……」

 考えたくないけれども、この反応はっ!?

「ふははははは」

 拓郎に笑い声に振り返る。銀次に突き飛ばされたあと立ち上がりながら、拓郎は高笑いを上げた。

「お前っ、まさか!」

「そうさ、アリスの中にXを入れていたんだ。ここに来る前にな」

「さっきまで、何もなかったのに」

「お前が来たからだよ、白藤」

 にたり、と笑う。

「お前が来る可能性を考慮して、お前の中に入れたXとだけ共鳴するように調整したXをいれたんだ。目覚めるのが少し遅かったようだがな」

 もう少し改良が必要だな、などとつぶやく。

 アリスの痛みによる悲鳴が止まらない。助けに行きたいが、自分が近づくことがマイナスに働いてしまう。どうすればいいのか。こいつを連れて、ここから離れることが最善だが、しかしこいつを捉えている間にアリスの体が持つのか。とはいえ、アリスとこいつを残して自分が立ち去っても、拓郎が何をするかわからない。

 必死に考えながらも、少しでもアリスと距離をとろうとする。

「この外道がっ」

 吐き棄てると、拓郎は楽しそうに笑い、

「これこそが私の実験だよっ」

 そう宣言する。その直後、

「やりすぎです」

 ここにいる三人以外の、冷えた女性の声がする。どすっという、鈍い音も。

「え……?」

 拓郎が驚いたように自分の腹部を見下ろす。つられて銀次もそちらを見ると、そこから赤く染まった刃が突き出ていた。

「な……」

 言葉に詰まる。何が、起きている?

 次の瞬間、その刃が後ろに引き抜かれ、拓郎がうめき声をあげながら、床に倒れた。地面が、赤く染まっていく。

「だんな、さま……?」

 思わず、つぶやく。

「まったく」

 涼しい声がして、慌ててそちらを向いた。

 そこには、大きな刀を片手にもった一人の女性が立っていた。くるぶしまで隠す丈の長い黒いスカートに、白いエプロン。綺麗な黒髪をお団子にまとめあげたその姿。見なれた、でも決して、今この局面で目にすべきではない人物。

「話が違います。優里はアリスお嬢様のことが大好きなのに、なんてことをしてくれたんですか」

 冷たく言うと、倒れている拓郎を蹴りつける。ひゅーとか弱い息が漏れ聞こえるだけで、拓郎は反応をしない。

「地球人は、本当弱いですね」

 それをみてつまらなさそうに呟いた。

「優里、さん……?」

 目で見たものが信じられない。だが、ここにいるのは確かに優里で。

「お話は後」

 優里はそう言うと、持っていた刃を宙に投げる。ひゅっとどこかに飲み込まれたかのように、一瞬で刃は消えた。

「なっ」

 驚きの声をあげる銀次を無視して、

「アリスお嬢様」

 駆け足で、アリスのそばに近寄ろうとする。

「待てっ」

 本当に優里なのか、優里だとして任せていいのか。信頼しきれず、その手を掴んで止めようとしたのを、

「アリスお嬢様が苦しんでいるのを放っておいていいのですか? 優里がアリスお嬢様に何かするわけないでしょう?」

 冷たくそう言い、銀次の手を振りほどく。

「近づけない人は、せいぜい離れていてください」

 そして、

「いやあああ」

「アリスお嬢様」

 痛みに声を上げる、アリスのそばに跪く。

「ゆ、り……? やぁっ……」

「もう大丈夫ですよ」

 優しく微笑むと、その腕をとり、何もない宙から取り出したのか注射器で何かを注入した。

「おいっ」

 不穏すぎる行動に、慌てて近づこうとする銀次に、

「来ないでくださいっ! 悪化したらどうするんですか」

 銀次の方を見ずに静止する。

 それに、思わず足が止まる。実際近くことでアリスの悲鳴は上がり、自分の体内のXも騒ぎ出した。心配なのに、近づけないなんて。

「大丈夫、ゆっくり息をして。すぐに、落ち着くはずですから」

 優里の手つきは、恐ろしいほど優しい。いつもとまったく変わらない。そのエプロンが、赤く染まっていること以外は。

 うめき声をあげていたアリスだが、少しずつ体の痙攣も収まり、やがてゆっくりとその瞼が閉じられた。

 優里はそれを確認し、そっとアリスを横たえると、

「大丈夫、一時的にXを静めました。とはいえ、効力は一日ぐらいですが。今は眠っていらっしゃいます」

 立ち上がり、銀次に向かって淡々と告げた。

 それにほっと、息を吐く。でも、それは一瞬で、

「あんた、誰だ? 本物の、優里さんなのか?」

 身構えたまま聞くと、

「優里は優里ですよ」

 優里は少しだけ微笑み、

「ただ、地球人ではありませんが」

 さらりと、言い放った。

「は?」

「優里は宇宙人、というやつです。あなたがた地球人がまだ、認識もしていないほど遠い星の。本名は      」

 優里が何かを言ったが、銀次には聞き取れなかった。

「地球の人にはわかりませんよね。今まで通り、優里とお呼びください」

「その宇宙人っていうやつが、なんでここに」

「一言で言うと、今回の黒幕ですね」

 思わず舌打ちが漏れる。

 たまたま生活圏に紛れ込んでいた宇宙人が、たままた善意だけで助けに来てくれたという展開を期待したが、そんな都合の良い話はなかったか。

「くそったれ。バイクに乗ってくるヒーローじゃなくて、光の巨人の方かよっ」

 勝手に壮大になった話に思わず毒づくと、

「あらやだ、銀次さん。そこは、宇宙刑事っておっしゃった方がいいのでは? せっかく、銀色なんですから」

「なんで宇宙人が詳しいんだよっ!」

 謎の訂正を入れられて、余計に腹がたつ。

「優里は科学者です。優里の星では、元々他の惑星での研究が盛んでして。未開の地、地球も話題に上がっていたんです。強い興味があって、実地研究員として優里が派遣されました。あなたたちがXと呼んでいるのは、私の星のエネルギーを受けた生き物なんですよ。一定期間をかけてその星の風土のデータをとる。そして、Xをその星の知的生命体に譲渡する。Xをどう扱うか、そして異星でXはどう反応するかを任意の土地で見る。それが、実験です」

 科学者? 研究? 何を言っているのか。

「マッドサイエンティストは一人で十分だ」

「あら、失礼な。自分の星の価値観で、測らないでくださいますか? 優里の星では極めて普通の研究なんですよ。それに、Xをああやって使うことを選んだのは鈴間屋拓郎です。こんなことになったのは、あなたたち地球人の悪意の一つが原因です」

「旦那様なんかに渡すからいけないんだろうがっ。しかも、旦那様を手にかけたのは、あんただっ」

「まあ、人選について悪意があったことは、否定しませんが。それから、優里はアリスお嬢様のことが大好きなんですよ、本当に。それだけは、信じてくださいね。だから、アリスお嬢様を傷つけた鈴間屋拓郎が許せなくて、つい」

 どこまで本気なのかわからない、能面の顔で彼女はそう言う。

 それから残念そうに一つため息。

「銀次さんとは、ゆっくり遊びたいのですが。でも、今日はもう帰った方が良いでしょうね」

 言って優里はアリスの方を振り返る。アリスは眠っているが、顔色は悪いし、汗もひどい。何かを小さく呟いたようだが、銀次には聞こえなかった。

「シュナイダーさんには連絡してあります。もうすぐ迎えにいらっしゃるはず。そうそう、薬が効いているとはいえ、銀次さんはアリスお嬢様に近づかないほうがいいと思います」

 それから倒れている拓郎に近づき、落ちていたUSBメモリを拾い上げた。

「餞別です」

 投げられたそれを、銀次は慌てて受け止める。

「鈴間屋拓郎の研究データが入っています。中身は正確ですよ、優里が監修しているので」

 それだけ言うと、黒いスカートの両端をつまみ、軽く持ち上げる。片足を後ろに引くと、もう片方の足の膝を軽く曲げ、

「それでは銀次さん、今日のところは、御機嫌よう」

「まてっ」

 そんな別れの言葉と、美しいカーテンシーを残し、次の瞬間に優里は消えた。

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