第三章 鈴間屋アリスは告白する(3)

 自室にもどってきたアリスは、そのままの勢いでベッドに倒れ込んだ。強引だったので車椅子が鈍い音を立てて倒れたが、そんなこと知らない。枕に顔を埋める。

「白藤のばかっ」

 ばかばかばかばかばかっと、言葉を枕に叩き付ける。

 勇気を出して言ったのに。なんなのよあの煮え切らない態度っ。

 いつもそうだ。いっつも、お嬢様お嬢様お嬢様って。敬うフリをして、遠ざける。距離を置く。

 子ども扱いされるならまだいい。だって実際子どもだから。それに甘んじるぐらいの分別はある。だからって怒る程子どもじゃない。

 だけど、

「……何を隠してるのよっ」

 最近の白藤は変だ。白藤だけじゃない。シュナイダーも優里も、皆、変だ。皆なにかを隠している。そしてそれはきっと、

「くそ親父」

 のことなのだろう。

 隠し事だけはしないでほしい。

 ってか、隠せてないし。

 だって、自分でも変だと思わないのだろうか? それとも、アリスはそれにも気づかないぐらい馬鹿だと思われているのだろうか? 寝起きのはずの彼が、仕事中につけている白い手袋をはめたままなのは、おかしいのだ。

 先ほど握った彼の手を思い出す。手袋に包まれたままの手。

 私は彼の手の温かさを知らない。いつからなのかは判然としないが、彼はどんな状況でも手袋を外さなくなった。前は、運転中以外は外していた気がするのに。

 きっと何か意味があるのだ。それがなんなのかまでは、わからないが。

 一つため息。

「……顔色、悪かったな」

 あんな顔色で何もないなんて、信じられるわけがない。

 隠しごとをされたら、素直に気遣えない。具合が悪いなら素直に言って欲しい。せめて。せめてそれぐらいのこと、させてくれてもいいじゃないか。

 お嬢様、なんて呼ばないで。

 そうやって距離をとらないで。

 お嬢様は知らなくていいことです、なんて、そんな顔をしないで。せめてそこは対等でいさせて。

 泣きそうになって、ぐっときつく枕に顔を押し付けた。


 白藤銀次が鈴間屋に来たとき、不謹慎ながらもアリスは嬉しかったのだ。年が近い人がくる、と聞いて。

 だけれども、それを銀次に見せてはいけない、と思っていた。それぐらいの分別はあった。だって彼がここにきたのは、両親を亡くしたから、一人になってしまったから。だから、彼がここに来たことを喜ぶような態度を見せてはいけない、と思っていた。

 最初は少しシュナイダーなんかを手伝いながら、普通に高校生をしていた。いつも暗い顔をして。

 当たり前なのだが、その顔にずきずき胸が痛んだ。この家の中に、そんな暗い顔をした人がいることが悲しかった。みんな真面目に仕事をしていたけれども、鈴間屋で働く人々はみな、明るかったから。そこに一人、暗い顔をした彼がいることが、悲しかった。

 彼はもっと悲しいのだろうけれども。

 母親を失った悲しみは知っている。だけど、そのころから研究バカだったけれども、アリスには一応まだ父親がいた。だから、彼の悲しみを全部わかってあげられない。それが悔しかった。

 でもどうにかして元気になって欲しい。それは家の中が暗いことを嫌がる気持ちと、純粋な心配とがごちゃまぜになった感情だった。

 だからあの日、意を決して、庭の片隅なんかで本を読んでいる銀次に近づいた。大体、そんなところにいないで、家の中にいればいいのに。人のいないところ、邪魔にならないところをさがしてうろついたりしないで。

 銀次はアリスに気づくと顔をあげ、読んでいる本を閉じた。そして慌てて立ち上がり、今とは違う隙だらけの気をつけをした。

「アリスお嬢様?」

「白藤銀次」

 アリスは彼の前に進むと、その顔を見上げながら、人差し指を突きつけ、告げた。

「私、お兄ちゃんが欲しかったから、私のこと妹って思ったっていいんだからね!」

 言い終わったあと、いやそれなんか違うだろ、と思った。案の定、

「……は?」

 銀次が怪訝そうな顔をしている。

 いや違う、本当は、貴方は一人じゃないんだからね、的なことが言いたかったのになんだそれ妹って。ああ、自分はバカなんだな、と思った。対人スキルが無さ過ぎる。

 泣きそうになった。

 それでもいまさら逃げるわけにもいかなくて、恐る恐る伺うように銀次の顔を見た。

 アリスの予想に反して、彼は小さく、本当に小さくだけれども笑っていた。それから、それから何度も聞くことになる声で告げた。

「ありがとうございます、アリスお嬢様」

 それで恋に落ちた。

 とても簡単に。

 その顔に魅せられた。もっと見ていたいと思った。

 その日の笑顔はすぐに消えてしまったから、その後しばらくアリスは彼につきまとった。たまに鬱陶しそうな顔もされたけど、基本銀次は温かく受け入れてくれた。楽しかった。

 あの頃、二人の関係は対等だった、と思う。

 そりゃあ多少銀次の方に、鈴間屋の娘であるアリスに対する気遣いが感じられたけれども、それでも対等だった。一人の人間として、アリスに向き合ってくれていた。

 ただ、手続やレポートが途中だったため、向こうの大学院に行き、戻って来たときには銀次は変わっていた。高校も卒業して、すっかり鈴間屋の使用人になってしまっていた。

 アリスとの間に、明確な線を引くようになっていた。

 あのときは、すごく悲しかった。

 せめて、昔みたいに、妹を呼ぶようにアリスお嬢様って呼んで欲しい。それが無理なら、笑っていて欲しい。

 恋が叶わなくたって構わない。

 だけどせめて、笑っていて欲しい。あのときみたいに。屈託なく。

 多分、それは贅沢な望みなのだろうけれども。誰かの笑顔を望むなんて、贅沢なことなのだろうけれども。

「……笑って」

 枕に片頬を預けながら、アリスは小さく呟いた。

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