第三章 鈴間屋アリスは告白する(2)

「好きなんだけど」

 と、アリスに言われたのは、無事大学院も卒業したアリスがスズマヤコーポレーションの経営をまわしはじめたころのことだ。

 信号待ちの車内で言われて、慌てた。それでなくても、まだ運転手の仕事に慣れていないころだったのに。

 弾かれたように後ろを向くと、アリスはつんっと唇を尖らせて横を向いていた。それ、好きって言ったあとの態度か?

 そのままアリスは、

「付き合って欲しいんだけど」

 と続けた。

「……あの、お嬢様?」

 何度かぱくぱくと口を開閉させ、かろうじてそれだけの言葉を吐き出す。

 と、丁度その頃信号が青に変わった。

 ぷっぷーとクラックションを後ろの車に鳴らされて、慌てて前を向き直る。

「……その、本気ですか?」

 運転しながら少し心を落ち着かせて尋ねると、

「なによその言い方っ」

 怒鳴られた。

 そういう態度とられたら、本気かどうか尋ねるだろうよ、そりゃあ。ツンデレは二次元だけに止めておいてほしい。っていうか、デレていない。

「……いえ、申し訳ありません」

 あの頃は四歳下、十四歳のアリスなんて妹以外の何者でもなかった。妹だと思えばいい、と先に言い出したのはアリスの方だったし、妹だと思っていたことを責められる謂れはない。っていうか、それ以外だったらヤバいだろう。

 だからってここで、いやいや恋愛対象じゃないんですよ、なんて答えられるわけもない。

 大体、仮にオッケーしたところでシュナイダーや優里になんて言われることか。旦那様? あの人はそういうこと興味なさそうだからいいけれども。

 頭の中をフル回転させて、かろうじて銀次が絞り出した言葉は、

「職務専念義務というのが、ありまして」

 よくシュナイダーが言っている言葉だった。勤務中は職務に専念しなさいと、そういう義務があるのだと。それが働くということだと。

「私は今仕事中ですので。勤務中は職務に専念する義務があるんです」

 ちらりとバックミラーでアリスの顔色を見る。

 むすっと唇を結んだまま、こちらを見ていた。

「だからその、お嬢様のことをそういう目で見たら職務に専念できなくなってしまうので。そうなると、シュナイダーさんに怒られますし」

「……シュナイダーめ」

 小さな声でアリスが毒づいた。ああすみませんシュナイダーさん、罪を被せて。

「だからその、お嬢様が大人になって、もしも私がクビになって、ええっと、その時にもお嬢様の気が変わっていなかったら、そのときはお願いします」

 フォローの言葉も一緒に投げる。全然、お願いする気なんてなかったけれども。そのときには。

 アリスはむすっとした顔のまま、しばらく銀次の後頭部を眺めていたが、

「……まあ、今日のところはこんなもんでいいわ」

 しぶしぶと言ったように呟いた。

「あと数年もしたら、白藤、あなた後悔するわよ。あの時にツバをつけとばよかったなぁなんて後悔したって遅いんだからね」

 ふんっと生意気そうに鼻を鳴らしてアリスが言う。

 どこでそういう言葉を覚えてくるのやら。

 そうは思ったものの、アリスの機嫌をそこまで大幅に損ねなかったことに感謝しながら、

「はい、楽しみにしています」

 なんて適当に返事したことを覚えている。


 あれから二年。何が困るかって、確かに後悔していることだ。

 あのときよりもだいぶ大人っぽくなった顔で、アリスがまっすぐにこちらを見てくる。あのときは運転中だから顔を直接見なくてよかったのに、今日はそうもいかない。

「大人になったら考えてくれるって言ったよね? 十六歳は、大人よね? だって結婚できるもの」

「お嬢様が大人になって、私がクビになっていたら、です。条件が足りません。私はまだ運転手ですよ」

「じゃあ、やめていいから。クビにするから」

「さすがにそんな理由で、クビにされたら恨みます。恨んだら答えは当然ノーです」

「はぐらかさないで白藤」

 ぐっとテーブルの上に置いた左手を掴まれた。

「お嬢様」

 困惑して呼ぶと、アリスは少し潤んだ瞳で顔を見上げてきた。

「私は本気だよ?」

「お嬢様」

「……名前で呼んで」

 そっと囁くように言われる。

 長い睫毛に、潤んだ瞳に、少し上気した頬に、桃色の唇に。これらをあのときみたいに、妹だとは思えない。思っていない。

 ごくり、と自分がツバを飲む音が聞こえた。

 アリスは何も言わず、射抜くようにこちらを見てくる。

 覚悟を決めて、ゆっくりと口を開く。

「……お嬢様」

 瞬間、アリスの顔がくしゃりと歪んだ。泣きそうに。

 それを見て、心が痛む。

「……もういい!」

 銀次の手を離すと、がたりと乱暴に音をたてて車椅子を動かす。

「片付けておいてよね!」

 投げつけるようにそう言うと、脱兎のごとくその場から逃げ去った。

 車輪の音がしなくなると、はぁと銀次はとめていた息を吐いた。

 肘をつき、腕を持ち上げる。掴まれた腕。まだ温もりがあるその部分を、反対側の手で押さえる。押さえた手は、手袋の下にあるものは、人間のものじゃない。そこに額を押し付けると、大きくため息をついた。

「勘弁してくれよ……」

 溢れた落ちた言葉が震える。

 妹のようだ、なんて今は思っていない。彼女を見る目は確かに変わっている。

 今なら、シュナイダーや優里の嫌味も回避するスキルがある。

 だからって、あの局面で名前を呼べるわけがない。

 言えるわけがない。

 こんな化け物が、そんなこと。

 化け物の分際で、好きだの付き合って欲しいだの、そんなこと言えるわけがない。

「……ほんと、頼むよ」

 泣きそうになって、きつく目を閉じた。

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