第26話


ガイに唇を塞がれて、私は離れる様に手で押し退けようとしますが、びくとも致しません。



私が扉の取っ手を離しましたので、扉は閉まっているものの、まだパーティーは始まったばかりな上に、護衛に向かわねばならないというのに、何を考えているのでしょうか?!


……というか、これ、あの……息継ぎってどうすれば?! ずっと息を止めていて、私はそろそろ息の根が止まってしまうんではないのでしょうか?? 私、夫に殺されるなんて思いもしませんでしたよ?!


私が限界で、くぐもった声を喉から絞り出すと、やっとガイが離れてくれました。長い、長すぎです! 私は乱れた呼吸を整えつつ、ガイを睨みます。


視界に入った彼の唇に、私の口紅が移っていて、途端に恥ずかしさが込み上げて参りました! な、何だか如何わしい事をしてしまった様な気が、いえ、不埒な真似をされたのですから当然の感情なのですけど!!


「くく、お前鼻で息をしろ。妻を窒息死させるかと思ったぞ」


「し、知らないのですからしょうがないでしょう?! というか、何をしたか分かってます?! 私達まだ職務中っ……」


「可愛い事を言うのが悪い。パーティー中、口付けを交わす夫婦なんて珍しく無いだろう? 」


「それは出席者の話しでしょう?! 」


もう誰か彼をお止め下さいましっ!!


……いえいえ、怒るのは後でございます、直ぐに会場へ向かいませんと!


「っガイ、あの、口紅が……」


「ん?ああ……」


ガイは親指で唇を乱暴に拭います。それがやけに生々しく、私は目を逸らしてしまいます。すると、唇にふに、と感触がして、反射的にガイを見上げました。何故か拭った親指で、私の唇をふにふにと弄っているのです。……何してますの、この人……。


「……何ですの?」


「いや、お前の口紅が剥げたから戻そうかと」


「ばっ、馬鹿じゃないんですの?! 」


恥ずかしさにかっと頬が赤くなるのと同時に、私は慌ててガイの手から離れ、控え室の壁に掛けてある飾り鏡で確認します。……ガイがしつこくするから、殆ど落ちています。……何事もしつこいのでしょうか? 私は胸元へ挟んでおいた口紅を取り出し、さっと直します。


「お前、何て所に入れてるんだ?! 」


ガイの言葉はこの際無視でございます。そのまま彼の手を引き、裏手の扉から私達は会場へと急ぎ紛れ込みました。



私達は静かにお嬢様の後ろへ控えます。そこでは、学園長へ礼をするジョセフィーネ様の姿がございました。彼女は恭しく立ち上がると、下段の大勢見守る方々に向き直りました。



「皆様方、この度の交換留学生で私がスクワン国初に赴くという大変名誉な役目を頂き、光栄でございます。この国の顔として恥じぬ様、努めて参りたいと思っております。皆様には、是非とも先程王太子殿下から御紹介賜りました、今迄行方不明でした私の妹と共に、スクワンからの留学生にも何卒良しなにして頂きたいと存じますわ」



成る程、ミレニスさんはその設定でマーレイ家の一員だと説明されたのですね。それでしたら今後お友達が出来やすくなるかも知れません。ジョセフィーネ様がミレニスさんを虐めていたのは……時間が経てば噂は収まっていくのでしょう。


壇上の彼女は最後に優美に微笑まれ、そこかしこから感嘆の溜め息が上がりました。その後から拍手が鳴り響きます。



……ジョセフィーネ様とて、立派な淑女なのでございます。公爵家の教育が生易しい筈がございませんから。只、その時。その運命の歯車がほんの少しだけずれ、家庭の事情による性格形成が……彼女の心を頑なにしただけなのかも知れません。


拍手の中、彼女はゆったりとした動作でお辞儀をし、壇上を後に致しました。


そのまま学園長が挨拶を終えて、楽団の演奏が始まりました。ジョセフィーネ様の行き先を目で追う方が減る中、彼女は踊る事も無く、そして振り返る事も無く、会場を後にしたのです。その後ろにはベガモット様がぴたりと付き添います。



アリアナ様が彼女を少し追おうと身動ぎしたのですが、殿下にエスコートされ会場の真ん中へ移動されました。そのままお辞儀をしあい、ダンスが始まりました。


先程のやり取りなど無かったのではと思いたくなる程、踊る方々のドレスが華やかに舞って、幻想的です。



私はお嬢様の憂いが晴れるのなら、それで良いと思うのです。けれど、踊られるお嬢様の表情は少し陰っている様にも見えます。私の気のせいだと良いのですけれど……。


確かに、ジョセフィーネ様は昔からお嬢様に会えば嫌味やら苦言やら、時には手紙も送り付けて何かと絡んでいたとお聞きします。実際私がお手紙を調べる際も数度お名前を確認致しましたし。お嬢様の婚約も、裏でマーレイ家が主導して反対していたとも噂で聞いておりました。


あの中庭の時だって許されるものではありません。砂竜サンドワームを目の前にした時は、さぞ恐ろしい思いもされたとは思うのですけれど……こうやって、ジョセフィーネ様が気に掛かる私は、甘いのでしょうか……。それとも、余りに去り際が潔くて、どれが彼女の本来の顔か分からなくなってしまったからでしょうか。



「ラナ、気を抜くな」


少し思いに耽っていて、気が抜けていたかも知れません。私は、はっと思い直したのですが……先程職務とは全く掛け離れた行動をしたガイに言われると何だかむっと致します。


「暫く話し掛けないで下さいまし」


「何を怒ってる? こら、離れるな」


私はこっそりとガイの側から距離を取ろうとしたのですが、がっちりと腕を取られてしまいました。悔しい……。



……大体、初めての口付けだと言うのに、時と場所を考えてくれても良いのではないでしょうか?!いえ、何を考えているのでしょう、私は……。いや、でもっ。


そう思っている私の頭に何か軽く触れた感覚がします。感触のしたガイの方を見れば、私の頭に口付けています。


「ご、護衛中!! 」


私はそれでも声を潜めつつ、窘めます。それより、私は怒ってるんですからね?!


「護衛よりも妻の機嫌を取る方が大事だ」


わ、私は護衛の方が大事なんでございます!!


「その行動の方が、私怒りますよ!! 」


「ふ、俺の妻殿は手厳しい」


怒っていると言っていますのに、何故嬉しそうなんですの?! 全く……肘でも見舞ってしまおうかしら……。



「私達を放っていちゃつくなど、どんな護衛だ、2人共」


残念ながら、お見舞いする前に踊り終えた殿下とお嬢様が戻って参りました。命拾い致しましたわね、運の良い。

私はさっとガイの腕を振り払いました。それを見て、殿下は笑いを噛み殺しています。


「さて、私はデビュタント達と多少踊らねばならないからね。がちがちに緊張しているミレニス嬢を誘って来よう。アリアナは、誰とも踊らなくて良いからね、疲れたと言って休むと良いよ」


「もう、スティ?私だって多少踊るのも義務です。ヒース王子殿下が今年隣国へとお戻りになりますから、ご挨拶致しませんことには」


「あいつ、口が上手いからアリアナに近付けたく無いんだけれど、仕方ないなぁ。後は踊らなくても良いからね?ラナ、しっかり見ておいて」


「時と場合にもよりますが、不埒な者は近付けさせませんので、ご安心下さい」


口の上手さに関しては、殿下に思う所もございますが、私はガイと違って真面目ですから、口には出さず礼を致します。そう、ガイとは違うのです。


「あ、良かったスチュワート殿下。是非ミレニス嬢と踊ってあげて貰えないだろうか? まだ緊張している様だからね」


そこへ、ヒース王子がミレニスさんを伴って此方へ向かって参りました。


「い、いいえ、いいえ!! あの、本当にダンスは不慣れですから、その、お手を煩わせる訳にはっ! 」


ミレニスさんは殿下と踊ると聞いて取れてしまうのではないかと思う程、首を振っています。……苦手、ですものね。追いかけられた記憶ばかりなんですものね……お察し致します。


「まあまあ、ミレニス嬢。貴女には今回の事も今までの事も色々と謝りたい事もあるし、是非踊ってはくれないかな? 今日のドレスも、ミレニス嬢の可愛らしさに合っていて、とても良く似合っているよ。もっと皆に見せびらかしに行かないとね」


「は、あの、こ……光栄でございます……」


殿下はミレニス嬢の手を引いて、また会場の真ん中へと向かい始めました。その後から、ヒース王子にエスコートされてお嬢様も続きます。ダンスのされている方々の中には、お嬢様のご友人方も楽しそうに踊られています。



こうして、波乱の卒業パーティーは無事に過ぎて行くのでした。



私は、お嬢様のお気持ちだけが少し気に掛かり、雰囲気に浮き立つ事はありませんでした。……横のガイは終始腰を抱くので、ちょっといらっとしましたが……。




ーーーーーー




パーティーも無事に終わり、次の日の早朝。



まだ帰郷する方々も寝ているであろう夜も明けきれない内に、お嬢様と私は寮の門の前まで来ていました。ホムラとシズルに頼んで、見張っていて貰っていたのです。


ジョセフィーネ様が旅立つ間際に会える様に。


危なく、馬車へ乗り込む所を、私が慌てて声を掛けてお止めしたのです。私達……いえ、お嬢様の顔を見て、眉を潜めたジョセフィーネ様は、そのまま馬車へ乗り込もうとされていたのですけれど、ベガモット様に扉を押さえられ乗る事は叶わず。思いっきりベガモット様を睨んでおります。


「ジョセフィーネ様、お待ち下さい」


「……今更何なのかしら? 無様な私を笑いに来たの? 」


ジョセフィーネ様は、此方を向く事も無く、忌々しげに言い放ちました。門まで少し急いでいたので、お嬢様は胸を押さえて息を整えてらっしゃいます。



「……ジョセフィーネ様、どうぞ私を恨んで下さい」



「……何ですって? 」



ジョセフィーネ様はその言葉に、とうとうお嬢様に視線を向けました。対するお嬢様の表情は、鬼気迫る程真剣でございます。恨んで欲しいなど、進んで望む人などいないでしょう。


暫し、しんとした空気が漂い、早起きな鳥の声だけが、私達4名を包むのでした。



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