第二章 虚無・孤独・チンパンジー

 今日の俺は、色々と、駄目だった。

 変な粉は吸ってるし、はっきりとした幻覚は見るし。幻聴も聞き取っちゃうし。


 人恋しさを拗らせすぎて、美少女の幻覚を見て会話する。

 冷静に考えたらヤバすぎる。


 こんなんじゃ駄目だ。

 そんな義務感に急かされるように、俺はとある場所を目指していた。


 手に持つは、クリスマスケーキ。

 サンタクロースとトナカイの可愛らしい砂糖菓子がトッピングされた、ホールのショートケーキである。


 ちょっとお高い店で買ってみた。普段俺はケチなので、自分でも散財してる、無理してるな、と思う。


 それを持って、どこに向かうか。

 元カノの家である。


 目的は、ただ一つ。

 ヨリを戻そう。そう伝えるつもりであった。


 今日はクリスマス・イブ。世間はカップル・家族で盛り上がっていて、俺のように孤独な人間の居場所はない。


 別れたばかりで、きっとあいつも、一人で寂しい夜を過ごしているに違いない。

 その寂しさを、その間隙を、上手いこと突けば、きっと。


 そんなことを考えて、ひとり浮つく。

 あいつとヨリを戻したら、何をしようか。

 あそこに行きたいな、美味しい物を一緒に食べたいな。そして……。


 なんてことを考えているうちに、あいつの自宅マンションに着いた。

 合い鍵を持っているので、それを使ってエントランスからロビーへ、ロビーからアイツの部屋へ。


 先に連絡したら良かったかな、と考えがよぎったが、今更感があったので、このまま突っ込む。

 迷惑、かもしれない。あるいは、積極性が実を結ぶかもしれない。


 そして、俺はあいつの部屋の前に立つ。

 ガチガチに緊張していた。


 数度息を吸い、浅くなった呼吸を、凝り固まった体を、なんとかしようとする。

 呼吸の方はまだしも、体の方はどうにもならない。

 思考も同様に、凝り固まっていた。


 俺はぎこちない動作で、合い鍵をキーホールに突っ込む。

 インターホンを押して、反応を待つ。その時間すら、煩わしかった。


 今の俺のしていることは、褒められた行為ではない。だが、そうだとわかっていても、そうした。


 内側から溢れる気持ちが、俺を駆り立てる。

 この扉を開ければ、明るい未来が待っている。心の底から、そう思って疑わない。


 思えば、俺は常におかしかったが、このときばかりはそれに輪をかけておかしかったのだと思う。


 扉を開く。部屋の電気は、うっすらと点いている。


 玄関から、人の脚が見えた。

 ……それも、二人分。


 それも、裸の。


 あれ、何だろう。そんなことを思っていると。

「誰!?」

 あいつの声が聞こえてくる。それは、多少の恐怖を伴った声色だった。


「あ、いやっ、怪しい人間じゃ無いからっ! 俺だよ、俺! ちょっと話があって……」

 と言ったところで、俺は絶句した。


 俺の目の前には、毛布で体を隠すように包んだあいつと、そして。

「…………………………た、田中?」

 つい数時間前まで職場で残業していた同僚が、元カノの家にいた。しかも、下着姿で。


「……何しに来たんだよ」

 同僚は、いつもとは違う凄んだ声色で、普段見せないような敵意の眼を向けて、そう問う。

 その同僚の後ろに隠れるようにして、あるいは――愛する者に守られるようにして、あいつが立っている。


 俺は、全てを悟った。

「……え、あ、ええと、そ、そういうこと。君ら、出来てたの、なるほど」

 足が震え、言葉もその震動に影響されて、腰砕けになっている。


 俺の世界が、根底から揺れた。先ほどまで抱いていた、未来への根拠無き楽観的な思考は、現実のミキサーにぶち込まれて粉々になった。


「あ、あはは、おめ、おお、おめでとう。そ、その、こ、これ」

 口が上手く回らない。膝がガクガクと震えていた。


「けけけ、ケーキ。そ、その、変なものは、入っていないから」

 俺は玄関先にケーキをそっと置く。なんでか知らないが、頭の中の唯一冷静な部分は、『このケーキ潰したら、作ってくれたパティシエさんに悪いよな』とあまりにも場にそぐわないことを考えていた。


 作られたものなのだから、作られた目的に沿って消費されて欲しい。この状況下で、何を考えているのかと自分に言いたくなるが、事実、俺はそう思った。


「ほ、ほんとに……変なものは、入ってないから。みみみ、未開封、だから」

 ついでにレシートも置いていった。別に料金を請求するつもりではなく、この店で買ったから安心ですよ、ということを伝えたかった。


「そ、それじゃっ!」

 俺は慌てて踵を返し、逃げ去ろうとする。


「待って!」

 そんな俺を、あいつが呼び止めた。


 何だろうか、と訝しむ気持ち。

 まさか、と未だに残る楽観的思考。

 それらが、俺の脳内でせめぎあう。


「な、何かな?」

 緊張しつつ俺がそう問うと、あいつはこの上なく冷ややかな声で、こう言った。


「合い鍵、置いていって」

「……え?」

「合い鍵、置いて帰って。二度と、来ないで」

「……………………うん」

 俺は項垂れ、言われたとおりにする。


 あいつの毛布を羽織っただけの姿のせいか、それともあの白い粉の精力増強成分のせいか、知らぬうちに股間が怒張していた。


 元カノが同僚といつの間にか出来ていて、元カノに罵倒されつつ股間を膨らませている、という構図が成立している。

 実に、惨めだった。


                 ○


 どうやって家に帰ったか覚えていないのだが、気がつけば家にいた。

 記憶がないのは、あの粉のせいか、ショックのせいか。


 もういいか、と思えた。

 よりを戻そうとした元カノには吐き捨てられ、同僚には元カノを寝取られる。


 いや、確かに俺の行動は気持ち悪いかもしれないが、もう少し慈悲というか、情けというものは欲しい。


 外は寒いが、聖夜のぬくもりに溢れている。

 そこに、俺一人が疎外されているような気がしてならない。

 寒さが、一層染みる。骨すらも凍えていた。


 一切合切が辛かった。何もかも、どうでもよく思えた。

 だから俺は。


「……もういい。この粉、ガンガン吸って、そんでエロいサービス使って気持ちよくなっちまおう。えへへ、えへえへ」

 なんて言葉を口走るのであった。精神が限界に至った人間のそれである。


「そうそう! それこそトリップの醍醐味だよね! 酒! セックス! ドラッグ! さあさ、気持ちよくなっちゃおうよ!」

 いつの間にか再出現していたシャブ江が俺を煽り立てる。全く、なんて幻覚だ。


 全く、本当に全く。

 全く、その通りだ。


「ああ! そうしちまおう!」

 俺は悲痛な笑みを浮かべてそう叫び、白い粉が入った袋をがっと開く。机の上に、粉末が飛び散る。


 俺は両方の鼻腔にストローを突っ込み、まるで掃除機のように吸っていく。


 想像して欲しい。半泣き顔の男が、悲痛な笑みを浮かべつつ両方の鼻腔にストローを突っ込み、机の上に広がった粉を吸引している構図を。


 この世の地獄だ。


 鼻に空気と粉が入るたび、ガガガ、と頭の芯が揺れる。

 世界が幾何学状にひび割れ、まるで拡大鏡で観察した粘菌のようにウネウネと動く。


 ピンク色の象がいななく。かつて見たインド映画のBGMが壮大に流れている。


 こしょこしょと、誰かが耳元で囁く。それは不快でもあり、同時にこそばゆくもある。


 見えないものが見えたり、見えるものが見えなかったり。


 寒さが温かくなってきたり。

「あーっ! あっちーな!」

 服を着るのも煩わしくなり、全裸になる。


 コンコン、と誰かがドアを叩く。

 あれ、そういうサービスかな。もう来たのかな、早いな。

 そもそも俺、呼んでたっけ。


 まあいいや。

 ドアを開く。


 そこには、完璧の化身のような美少女がいた。

 美少女は、口を開く。


「やあ、私はあなたの恋人シャブ江! めくるめくトリップの世界にあなたを連れて行く、愛と退廃の使者だよ!」


 シャブ江は、手を差し出す。

 俺は、手を伸ばす。

 俺の手は虚空を掴む。俺は虚空に引っ張られるようにして、夜闇へと消えていく――。

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