第一章 孤独な聖夜と薬物と幻覚

 クリスマスを目前に控えた師走の下旬、彼女に振られた。


 初めて出来た彼女だった。互いに年齢が年齢なので、この人と一生を添い遂げるんだろうな、と何の疑問もなく俺は信じていた。

 けれど振られた。


 ちなみに、その彼女と付き合ったきっかけは、よくわからないうちに向こうから『付き合って欲しい』と言われたのだ。


 当時俺は飢えており渇いており、そして相手が普通に美人だったので、内心で小躍りしつつ、

「喜んで」

 と答えた。


 そして数か月後。

 なんだかよくわからないけれど、『つまらないから』という理由で振られた。まるで飽きたゲームを売りに出すような口ぶりである。


 つまらないのは事実として受け止めるにしても、もう少しオブラートに包む努力をして欲しいものである。もっとも、オブラートに包むことすら面倒だったのかもしれないが。


 とにかく、そんなことになった当日、俺はひたすら呆然としていた。ショックもあったのだけれど、まだ脳が現実を受け入れていなかった。


 いや、それは少し間違っている。きっと俺は、受け入れたくなかったのだ。

 

 誰かがそばにいるという温もり。それが一気に剥がされ、寒風吹き荒ぶ孤独の巷に放り投げられたのだ。

 その現実を、直視できなかった。


 そしてその翌日。俺は繁華街に行き、狂ったように酒を飲んだ。

 そこまでは、まあ覚えている。

 そんなことがあったのが、数日前。

 そして、今日。


「…………これ、どうすりゃいいんだ」

 俺は自室で、机の上に置いてあるものを見て、ぽつりと漏らす。

 机の上には、ビニール袋に入った白い粉があった。


 ビジュアル的にアレな代物だし、たぶん中身的にもアレな代物だ。

 飲んだくれて家に帰った翌日、気づかないうちに、ポケットの中に入っていた。

 ちなみに、説明書と領収書も付属している。

 説明書曰く。


『男の魅力ビンビン! 精力☆増強☆剤 これで女の子と寝れない夜を過ごそう!』


 とのことだった。……アルコールに自我を奪われた俺は、何を思ってこれを買ったのだろうか。何も考えていないという線も大いにあり得るが。

 ちなみに、領収書には三万円と書かれていた。高い。そしてそんなもの買うな俺。


「……そもそも相手がいねえのに、どうすんだよ」

 独り、自室でぽつりと漏らす。


 いや、相手がいないこともないのだが。

 相手はお金でなんとかなる。うん、を使えば良い。

 よい子は知ろうとしなくてもいい。どうせ生きているうちに知る機会が訪れるはずだ。


 そんなことを考えていると、ピピピ、とアラームの音が鳴る。出社の時間だった。

「……はあ、めんどくせー」

 俺は嘆息し、コートを着込んで外出する。


 外は、はらはらと雪が降っている。

 今日は十二月二十四日。

 ホワイト・クリスマス・イブだった。


                 ○


 クリスマスイブだろうがクリスマスだろうが、国民の休日でない以上、そして平日である以上、俺たち勤め人は仕事をせねばならぬ。

 世の中、そのようなことになっている。……望んでいないけれど。


「おい田中、そろそろ帰ろうぜ」

 残業をし、そろそろ帰ろうかといったところで、同僚の田中に声をかける。


 田中は俺と同期で、俺と同様に平社員である。といっても、田中の方が出世しそうな雰囲気が出ている。

 将来はこいつにこき使われる可能性も大いにあり得るのだ。


「ん、もう帰るのか?」

 田中がパソコンのディスプレイから俺に視線を移す。

「たりめーだろ。見てみろよ、オフィスの中」


 俺はそう言って、周囲を見回す。俺と田中と、あとは数人ほどしか残っていない。常時と比較すれば、残業している人数は明らかに少ない。


 どいつもこいつも、どうせ予定があるのだろう。…………爆発しろ。ああいや、爆発はしなくてもいい、俺の仕事が増えるだろうし。……別れろ。


 そんな呪詛の言葉を心中で唱える俺であった。

 ……むなしい。


「……確かにな、ほとんど残ってねえや」

 田中は苦笑した。

「一杯、どうだ」

 俺は田中を飲みに誘ってみる。独り身同士、この夜はこたえるだろう。

 そう思ったのだが。


「ああ……、誘ってくれて悪いけど、俺、この仕事片付けなきゃ」

 田中はそう言って、机の傍らにある書類の山を指さす。つれない返事であった。


「手伝ってくれるか? それなら、飲みに行けそうだが」

 田中が冗談めかして言う。俺は苦笑を浮かべ、首を横に振った。


                  ○


 独り家に帰る。コンビニで弁当を温めてくれた店員の微妙な笑顔が、やけに目に焼き付いていた。


 どうせ、

(ああこの人、独りなんだ)

 と思われているに違いない。


 あの店員は仕事終わりに彼女とイチャコラするつもりなのだろうな、と勝手に想像すると、怒りと殺意が無限に湧いてきた。

 セックス中にインターホンでも鳴ればいい。


 家に帰る。

 コンビニ弁当を肴に、ストロングでゼロな酎ハイをぐびぐびと煽る。人工物感マシマシのアルコールが、喉を焼き脳を腐らせる。


 何をするでもなく、テレビを点けて流す。どうしようもなく面白くない番組を、何をするでもなく漫然と眺めている自分に気づく。


 実に、孤独だった。

 以前は隣にあいつがいたのでわからなかったが、独りでいることはどうにも寂しいのだ。


「…………死にてえ」

 ぽつりと、そんな言葉が漏れた。

 これじゃあ駄目だろ、と自分で思う。


 いいのか、二十代後半の貴重なクリスマス・イブをこんなむなしい過ごし方で終わらせて、いいのか!?


 答えは、否。否である。

 どうするか、と思案する。何をするか、と思考する。

 頭は、アルコールで機能停止しつつあった。


 孤独だ。限りなく、孤独だ。

 つい最近までそういう存在がいたからこそ、孤独が際立つ。


 兎にも角にも、他人の存在が、他人の言葉が、他人の熱が、欲しかった。

 とにかく、他人に飢えていた。感情を交差させることに、渇いていた。


 そんなことを思っているうちに、一つ、候補が出た。

 そういうサービスを使ってやろう。そういう発想だ。


 別にアルコールの勢いで思ったわけではない。事実、今朝はそんなことを思っていたわけだし。

 しかし、と心の中で、俺の何かが待ったをかける。


『本当にいいのか?』

 俺に、『俺』が問う。

「なにがだ」

 俺は返す。


『本当にいいのか? 伝家の宝刀、童貞カリバーンを抜剣して、素人童貞カリバーンに変えてしまっても、いいのか?』


「……それは」

 俺は言葉に詰まる。返す言葉がない。

 ……どうして? それは、簡単なことだ。


「……そうかもしれない。俺は、そういう行為がしたいんじゃなくて、……この夜を、親しい誰かと過ごしたいだけなんだ」


 俺の中に存在する真の願望とは、詰まるところそういうことだった。

 性行がしたいわけではないのだ。親しい他人と、共に過ごしたいだけなのだ。


「でも」

 現実は、俺の願望を叶えてくれない。

「たぶんそれは無理だ。だから俺は」


 引き出しから白い粉をひっぱりだし、机の上に叩きつける。ぺしっ、という間抜けな音が鳴った。


 俺は同時にストローを取り出し、白い粉が入った袋を乱雑に開き、ストローで白い粉を少しだけ吸う。


 がつり、と視界が揺れた。

 思考が、おぼろげになる。

 くきき、と誰かが笑う声が聞こえたと思ったら、それは俺の声だった。


「だから俺は、そういうサービスを使う。この粉は精力増強剤でもあるらしい。だから俺は、そういうサービスを使ってこの夜を乗り越える!」


 俺は虚空に向けてそう強く断言し、さらに粉を吸う。

 俺の蛮勇に、がつりがつり、と視界が根底から揺れた。


 世界が幾何学状に割れ、色とりどりに染まる。

 ピンク色になったかと思いきや、紫に。紫になったかと思いきや、黄色に。かと思いきやチカチカ点滅して、ぐらぐらと体の芯が揺れる、崩れる、失われる。


 体は浮遊感に包まれ、重力が希薄に感じられる。

 思考は万能感に包まれ、今ならなんでも出来そうな気がした。


 あ、これすっげーなーきっもちいー。

 なんてことを、俺は思った。


 すると、ピンク色のもやもやが、目の前に現れる。

 その直後。


「やあやあやあやあ! こんにちわー!」

 なんて声が耳の内側、頭の中から響いてきた。『こんにちは』ではなく『こんにちわ』、『わ』を使っていそうな声色が微妙にカンに触る。


「私の名前はシャブ江! キミをめくるめくトリップの世界につれていく使者だよ!」

「…………はい?」

 あまりにも素っ頓狂なその言葉に、思わず素に戻る俺である。


「あれあれー? つれないなー! せっかくシャブでラリったんだから、もっとテンション上げてこーよ!」

 シャブ江と名乗った幻覚は、俺の反応を見て(?)そんなことを言う。

 キンキンと耳で響く、所謂アニメ声にも近いその声色を聞いて、俺はさらに現実へ戻される気分であった。


「……えっと、なに?」

「私はシャブ江! キミをトリップの世界へ連れて行く幻覚の使者だよ! さあ! どんどんキメてガンギマっちゃって、クリスマスの寂しさとか現実の厳しさとか、忘れちゃおうよ! なんなら……」


 俺の目の前にいるピンク色のもやもやが、その輪郭をはっきりさせていく。シャブ江はピンク色のもやもやから、人の形を取りつつあった。


 途中からもやもやとした動きではなく、がきごき、といった擬音を伴いそうな、ぎこちない動きで、もやもやから手が生え脚が生えてくる。

 まるで映画のワンシーンのようである。生々しくて、怖い。


 やがて、ピンク色のもやもやは、人となった。


「なんなら……、私が温めちゃうぞ☆」

 俺の目の前に立つのは、一人の美少女だった。


 ふわふわとした黒髪を肩の少し下で切りそろえ、少し太めの眉は眉尻が微かに下がっている。

 目はまるで小動物のようにくりくりと大きく、肌は降る雪のように白い。

 手足はすらりと細く、体躯は均整が取れている。


「……おいおい」

 俺の前に立つのは、一人の美少女(に見える幻覚)だった。

 たぶん、外見年齢で言えば、十代中盤から後半。


「いや、これは駄目だろ」

 俺の中で何かが警鐘を鳴らす。色々な警鐘が、合奏されていた。


 ここまでハッキリとした幻覚を見て大丈夫だろうか(大丈夫ではない)。


 幻覚で美少女を作り出し、その美少女が明らかに法律に抵触する外見年齢で大丈夫か(大丈夫ではない)。


 そんな幻覚少女シャブ江と、こうやって会話している俺は大丈夫か(大丈夫ではない)。


 いや、クリスマス・イブの夜に、一人で危ない粉を吸ってそういうサービスを使うかどうか、と煩悶している時点でまあ大丈夫ではないのだけれど。

 この状況は、それに輪をかけて大丈夫ではなかった。


 俺の前では、シャブ江が

「ねえねえー! どうしたのー!?」

 とテンション高めに媚びた声を出しつつ、俺の顔を覗き込んでいる。それが却って、俺を現実に引き戻す。


「……駄目だ」

「何が?」

 俯きそう漏らす俺に、シャブ江はきょとんとした表情で覗き込む。


「こんなんじゃ、駄目だー!」

「わわっ!?」

 焦燥感に駆られた俺は、コートと財布をひっつかみ、まるで何かから逃げるように外出するのであった。

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