8 マイ・フェア・レディ
晩御飯も終わってから、私は就寝することにした。
どうせ、今起きてもなにもないだろうし、それなら明日を迎えたほうが良いわ。
「ほら、ネグリジェよ。これを来て寝なさい」
手渡されたのは特注品の白いネグリジェ。なるべく自分で出来るように、ゆっくりと着てみせた。
「ちゃんと似合ってるよ……うん、おやすみなさい」
デジレがバイバイと手を振ってから、私は自分の部屋へと戻った。
なんだか、ちょっとだけ自由になった気分というか。今日一日はいろいろあったけど、今は気分が晴れやかだわ。
(我が娘よ、良い出会いを得たな。心を許せる人がいたことは良いことだ。余も嬉しく思うぞ)
珍しくポジティブなことをいう魔王にちゃっとだけ驚いてしまった。それだけ、私が心配だったのだろう。
(明日も良い日になるといいね……私、自由になれて良かったと思う。
だって、あんな所にいても何も変わり映えがしなかったんだもの)
(そうだな……余も嬉しい。娘の幸せが何よりも嬉しいのだ。生前とは違う、余は娘の幸せを大事にしてやりたかった)
哀愁漂うその言葉は魔王の本音を聞き出せたみたいだわ。
ちょっと意外だったけど、娘さんの悲劇を知っているから、私はなんとも言えない感情を抱いてしまった。
ごろんと、ふっかふかの白いマットに体を委ねる。綿の入った柔らかいお布団に身を包まれながら、天井を見上げた。
「ガゥウ……」
おやすみなさいという言葉は言えないけれど、私は自分に言い聞かせるように呟いた。
(おやすみ、我が娘よ)
□ □ □
ぽっかぽかの天気のなか、私は草原に座ってお兄さんを見上げる。
「今日から、一緒にお勉強をしていこう。言葉の方もなんとか話せるようにね」
「アゥ!」
これからは私はお兄さんのことを先生と呼ぶことにした。うん、その方が似合ってるもの。
元気よく手を挙げる。その姿に先生はとても嬉しそうにはにかんだ。
「気合十分ってやつだな! 大変かもしれないけど、付いてきてくれるかな?」
「ウゥー!」
「よしよし、とりあえず。今日は発声練習からしてみようか。大丈夫、ちゃんと治せるから」
「ガウ!」
先生は絵本を取り出してから、私に言葉を反復するように命じた。私もそれに習う。
「リンゴの下にくまさんがやって来ました。リンゴって言ってみなさい」
「アゥゥオ」
「ゆっくりでいいから、10回くらい続けてごらん」
私は何度も先生の声のマネをして言ってみる。でも、まだちゃんとした発音が出来ない。
話せなくなったのは、誰かと話すことが全く出来なかったから。
なら、今話せる相手がたくさんいてくれるし、練習すれば絶対に話せるはず。
先生はそう言ってくれたから、私も頑張って従うことにしたの。
「ちょっと疲れてきたかい?」
「ウァア」
いいえと言おうとしたけど、思った以上に言葉が話せない。これは年季がいるのかもしれないわね。
「次は物を持つ練習をしようか。最初はあの大きめの石を持ってごらん?」
「ウゥ!」
近くにある、人間の頭ほどの大きさのある石を持ち上げる。
普通なら重くて持ち上げられないものも、私には砂利に紛れた小さな石つぶて程の重さしか感じなかった。
なんとか壊さないように持ち上げる。これくらいなら、なんとか出来るわ。
「よしよし、次はもっと柔くて小さいものにチャレンジだ。
最初は大まかな力の調整を学んでいこう。ミーシャは優しい子だから、上手く出来るよ」
「アゥウ~」
頭をよしよしとなでてくれるの。
やっぱり、なでなでは気持ちがいいわ。特に先生のは手慣れているのか、すごく上手なの。
お耳もピンっと張り上げちゃって、尻尾がピコピコと動いてしまう。我ながら単純だなって思っちゃった。
「僕はね、とっても優秀な妹がいたんだ。だから、ミーシャみたいな女の子には結構慣れていてね。
昔は大学で教鞭をとっていたから、誰かに教えるってことが大好きだった」
先生は滔々と自分の話を始めた。出会った時は気にしなかったのだけど、先生がどんな生き方をしているか気になってた。
「フランク革命で、僕はアカデミア派というのに属していた。
王政末期では財政が破綻してて、重税を課していたし。その割に貴族や僧侶といった特権階級には無税だったんだ。
その理不尽な仕打ちに我慢できなくてね、僕ら市民は革命を起こした」
「ウゥ……」
「ミーシャが悪いわけじゃないんだ。ただ、許せなかっただけなんだ。
でも、今では血で血を洗う粛清の嵐吹きすさぶ世の中になってしまって。
僕たちはなにか間違えてしまったんじゃないかって思うこともあるよ」
先生の言う言葉は小難しかったけど、なんとなく分かった気がした。
圧政からの解放を望んで、先生たちは王政を取り壊し、市民による国を作り上げた。
それが正しいかどうかは分からないけど、私は今を生きれば十分だと思ってるわ。
「僕も主義者だ。だから、本当は悪い人間なんだろうね。
そんな自分が嫌で嫌でたまらなかったから、軍隊に入ったんだ。
本当は300人会の議員にもなれたんだけど、僕に政治は難しすぎた」
主義者という言葉は何を意味するのかは分からなかった。でも、先生が夢想家なのは分かる。
希望を胸に戦い続けた先生は、きっと高潔な人だったんだろう。だから、誰かに優しくしたかったのかもしれない。
「ミーシャには感謝してるんだ。こうやって、穏やかな日差しを浴びて、誰かにモノを教えることが出来て。
ずっと、こんな日が続けば、僕は幸せなんだろうね。誰かが死んだり、殺されたりするのは……苦しいんだ」
「アゥ、アアアゥ」
私がここにいるのは、人を殺すためだ。兵器として、私は人を殺さなければならない。
先生の言うことはおべんちゃらだと思ってしまった。
人が死なないことは良いことかもしれないけど、先生は私が魔王になることに加担しているのだから。
「ごめん、都合のいい事を言い過ぎだね。分かってる、分かってるつもりだった。
僕も責任を取るよ。
ミーシャが人を殺さなければならないのなら、僕もその罪を一緒に背負う覚悟はある」
その言葉が真剣なのか、安っぽいのかは分からない。この人の言葉には重みがない。
もし、私が本当に人を沢山殺し始めたら、そのセリフを最後まで言ってくれるのだろうか。
(我が娘よ、安易に信じてはならぬぞ)
そうだねと、私は心の中で小さくうなずく。
けれど、信じたい気持ちが強かった。大人として教えてくれる先生の必死さは、とても熱くて優しいものだったから。
素直に私は先生の教えに耳を傾ける。丁寧に、そして時には厳しく。小さい頃、私は勉強するのが楽しかったなぁ。
「そろそろお昼だし、一緒にここで御飯を食べようか。バスケットにサンドイッチを入れてきたんだ」
先生が取り出したサンドイッチには、シャキシャキとした新鮮なみずみずしいレタスが。卵、ハムを織り交ぜた、縦割れのバケットだった。
先生が口元に運んでくれて、それを鋭い歯でザクッと食べちゃう。口からこぼさないように食べながら、舌鼓を打つ。
ぽかぽかとした晴天のなか、私はとても爽やかで、ピクニックに最適な穏やかな一日を思う存分味わっていった。
「頑張ろう。ミーシャが人間として、市民として胸を張っていけるように、頑張ろう」
「アゥウ!」
人間、私はそれになる資格があるのだろうか。触れれば物を壊し、力を出せばあらゆる物を焼き払う。
それでもなお、先生は私のことを人間と呼んでくれる。だから、私は人間に少しだけでも近づきたくて、戻りたくなったわ。
「万物は創造主の手が離れる時は善なる物だけど、人間の手に触れてしまったら悪になってしまう。
それだけ、人間はエゴイスティックな存在だ。ミーシャのその手はありとあらゆる物を切り裂く恐ろしいものだと思う。
でもね、人間は心がければ正しい選択が出来る。優しく誰かを愛することができるんだ。
ミーシャもまた、そのお手手がどれだけ恐ろしいものだとしても、絶対に優しく抱きしめられるようになると思うよ。
そのために、学ぼう」
□ □ □
「せんせぃ……わたじ、すこひだけ、しゃべれるように、なったぁ」
あれから1ヶ月、私は必死になって訓練し。少しだけ言葉を取り戻すことが出来た。
「ああ、ミーシャ、ミーシャ!!」
ぎゅっと先生が私のことを抱きしめてくれる。そして、肩に涙がこぼれていく。
とっても喜んでくれる先生に、私もなんだか感動しちゃって。
「うぇ、うぇえ、うあああああ!!」
大きな声を上げながら、私も泣き崩れてしまった。
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