第5話 急変

 あれからしばらく経った後、ルークは村の村長宅に来ていた。研究の成果と今後を、研究所の仲間と話し合うためだ。


 この村には全くと言っていいほど電気がひかれてない。基本的には火を使っての生活で十分だからだ。唯一、村長宅だけに非常用の電話がひかれている。

 ルークは週に一度、この電話を使って定時連絡を、そして隔週で直接研究所におもむき、自分の研究を進めている。


「……ああ、そうだ。残念だが、今回も変化は見られなかった。G―15の交配の具合はどうだ? ……よし、次はそれでいこう。来週にそっちへ行く。……分かってる。スポンサー回りもするさ。頼んだぞ」


 ルークは話を切り上げると、受話器を電話機に掛けた。電話機はチン、という甲高い音を立て、通話が切られた事を知らせる。


 ルークは帰ろうと振り返る。すると、そこには村長のジェイスが立っていた。

 ジェイスは齢七十になろうというのに、今でも豪快に斧を振るって薪を割り、若い衆を率いて狩りに出かけるほどの豪傑だ。だが、普段はどこにでもいるような白髪の老人で、その雰囲気は独特の落ち着きを感じさせる。


「どうだ、茶でも飲んでいかないか?」

「そう、ですね。少しだけなら」


 いつもなら、この後すぐに帰って論文を書き上げるために断っていた。しかし流石に毎回断るのも失礼だと考え、ルークはジェイスの誘いを受けた。

 二人はリビングのソファーへ、向かい合わせになるように腰掛ける。ほどなくしてジェイスの妻であるセルリアが、トレイを持ってリビングに入ってきた。そしてルークとジェイスの前に金色のお茶が入ったカップを置き、自分もその脇の椅子に座る。


「さ、冷めないうちにどうぞ」

「はい、頂きます」


 セルリアに進められ、ルークはカップに口をつける。たちまち香ばしい味と香りが口中に広がった。普段自分が淹れて飲んでいる物とはまるで違う事に驚き、ルークは目を見張る。


「うまい。よほど良い茶葉なんですね」


 だが、そのルークの褒め言葉にセルリアは首を横に振った。


「いいえ。茶葉はどこにでも売っている普通の物よ。大事なのは淹れ方。これがほんの少し違うだけで、味を良くしたり、逆に壊してしまったりするの。貴方の研究だって同じ事でしょう?」

「ええ、全くその通りです。その、研究の事なのですが……」


 話を切り出したもの、言葉の歯切れが悪い。

 ルークの研究資金はいくつものスポンサーから金を借りて賄っている。そしてこの村からも支援を受けているのだ。だからルークは、村の代表であるこの二人に、今の成果を報告する義務がある。しかし、決して研究が進んでいるとは言えないこの状況を伝えるのが、とても心苦しかった。

 すると、ルークに助け舟を出すように、ジェイスが口を開いた。


「分かっているさ。だが、じっくりやるといい。焦れば余計に道を見失う事になる」

「しかし、」

「私達が君に投資をしたのは、村中に花が咲けば観光名所になりうるという目論見があったからだ。しかし、それだけではない。ここには、各地から日の光に当たれない子供達が集まってくる。その子達に少しでも世界を明るく見せてあげたい。その想いに賛同したからだ。これは私個人だけではなく、この村全体の総意でもある。だから頑張りなさい。皆の期待を無駄にしないために」

「ありがとう……ございます」


 ルークの胸に心地良く、そして熱いものが込み上げてくる。ジェイスの一言一言が、まるで体の隅々まで染み渡るかのようだった。ルークは両手をぎゅっと握り締め、二人に向かって深々と頭を下げる。


「ルークさん! ルークさんはいますか?」


 そこに突然、一人の白衣を着た女性が村長宅に転がり込んできた。それは、診療所でセージュの助手として働いているアリスだった。

 ジェイスはそれに少しだけ驚いた様子を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻しアリスの下へ歩み寄る。


「今、ルークと話していたところだ。一体何があった?」

「はあ、はあ……。よ、良かった。ルークさんの家に行ってもいなくって。もしかしたらと思って来たら、やっぱりここだったんですね。ミョルクさんのとこのミウちゃんが大変なんです! 今朝診療所に運び込まれて、セージュ先生にルークさんを呼びに行くようにと」

「ミウが!」


 ミウの名前に、ルークは思わず立ち上がっていた。すぐに脳裏に浮かんだのは、あの風邪に似た症状。そこからあっという間に最悪の展開に行き着き、ルークの動悸が跳ね上がった。


「行ってあげなさい。私達もアリスさんが落ちついたら行きます」

「はい、失礼します!」


 セルリアの許しを得て、ルークは二人に頭を軽く下げると、村長宅を飛び出した。ここから診療所はそう遠くない。深い雪に足を取られながらも、必死に走り続ける。


 そして数分後、ルークは診療所の前に辿り着いた。息を切らせながら入り口のドアを開け、中に飛び込んで叫ぶ。


「ミウ! 大丈夫か!」


 すると、奥の病室のドアが開き、白衣姿のセージュが現れた。

 そしてつかつかとルークの傍に歩み寄ると、スリッパを脱いでルークの頭を思い切り叩く。スパン、という小気味良い音が、診療所に響き渡った。


「馬鹿でかい声を出すな! ここをどこだと思っている!」

「す、すみません……」


 眉間に深い皺を刻んだ顔と、押し殺した怒声の迫力にルークは素直に謝るしかなかった。その殊勝な態度が功を奏したのか、セージュの顔から怒りの色がすっと消えていった。


「はあ、まあいい。それより、ミウの所に行く前に少し話そうか。今、あの子がどうなっているのかを」

「先生、まさかあの風邪が?」

「いや、それはもう完治している。しかし、確かに要因としてはあっただろう。一時的に抵抗力が落ち、そこに違う病気が感染した。何の前兆も無く突然発症し、重度の呼吸困難を引き起こす、アスト病という病だ。対処が遅れれば、大人でも三日で死に至る場合さえある。幸い、特効薬のストックが診療所にあったから、迅速に治療する事が出来た」

「それじゃ!」


 条件反射で喜ぼうとしたルークを、セージュが続く言葉で遮った。


「いや、油断は禁物だ。薬が完全に効くには丸一日かかる。それまで幼いミウが持つかどうか、五分五分といったところか。やれる事は尽くした。後はミウの体力と気力にかけるしかない。だからルーク、君を呼んだんだ。ミウが目を覚ましたら、傍にいて励ましてやりなさい」


 そう言うと、ルークの肩を軽く叩いた。そして、セージュは先程出てきた部屋に戻っていく。ルークもその後をついて、部屋の中に入った。

 部屋の中にはミョルクとシーア、そして二人に見守られてベッドで寝ているミウの姿があった。

 ミョルクは大分落ち着いている様子だったが、シーアがひどい。よほど泣いたのか、目は赤く充血し、瞼はひどく腫れてしまっている。今も、その目には涙が滲んでいた。


「ルーク、来てくれたか」

「当たり前だ」

「ほらミウ、ルークが来てくれたよ」


 ミョルクは席を立ち、ミウの傍の椅子を譲った。ルークはそこに座り、改めてミウの様子を確認する。

 ミウの顔は真っ赤で、呼吸も不規則で荒い。時々聞こえる何かが詰まるような音が、呼吸のし辛さを物語っていた。

 その口には半円の半透明をした器具が着けられている。そして先端にはチューブが取り付けられており、それは蓋がされた洗面器に向かっていた。どうやらそこに湯が張ってあり、その湯気を吸わせているようだ。


「ミウ」

「お、じさん?」


 口に取り付けられた器具と病気のせいで、しっかりと耳をすませなければ聞こえないほど、ミウの声は小さかった。ルークはもっと良く聞こえるよう、顔をミウに近付ける。


「頑張れ。もうちょっと辛抱すれば、すぐに薬が効いてくる。楽になるぞ」

「たす、けて」


 聞き間違いかと思った。一体何と間違えたのか様々な言葉を思い浮かべたが、どれも今の状況からはありえないものばかりだった。

 そして、続くミウの言葉で、それが聞き間違いで無い事を知る。


「ほんとうに、くるし、いの。う、ゴホ! ゴホゴホ! ハッハッ……! いきがで、きなくて。つらい、よ」


 ミウの右手が少しだけ上がり、ルークへ差し伸ばす。ルークはそれを両手で握るが、微かに指が動いただけで握り返してこない。もう、それだけの力も無いのだ。


「う、ァァ……アァァ!」


 突然、ミウがルークの手を振り解き、喉と胸を掻き毟った。器具は容易く取れ、かすれた叫び声を上げてベッドの上でのた打ち回る。さっきとは比べ物にならないほどの力だった。


「ルーク、ミョルク、手伝え! ミウを押さえつけるんだ!」

『は、はい!』


 すぐにセージュがミウに駆け寄り、ルークに指示を飛ばす。

 いきなりの事に気が動転していたが、弾かれたようにセージュの指示に従う。ルークは右手を、ミョルクは左手を取り、ベッドに押し付けた。その間にセージュは器具をミウの口に押し付ける。

 ミウは必死に抵抗していたが、徐々に力が抜けていくのが分かった。そして、ようやくミウが落ち着きを取り戻した。


「よし、もう離していい。ミウ、この器具だけは取っては駄目だ。いいね?」


 セージュはミウに注意を促すが、本人はぐったりとしていて聞いているのかいないのか分からない。目線は空ろで、自分達に見えないものを見ているようだった。

 初めてだった。ミウの弱音を聞いたのは。そして、ここまで弱弱しいミウの姿を見たのは。


 体が弱いミウは、これまで様々な病気にかかってきた。その度にルークは見舞いに訪れたが、いつでも“大丈夫だよ”とルークに笑いかけてくれたのだ。しかし、本当にそうだったのかと自分の記憶を疑うほど、今のミウはひどかった。

 果たして、このまま一日も持つのだろうか。正直この姿を見て、持つようには到底思えない。

 こうやって傍にいて、手を握るだけでは何の支えにもなりはしない。せめて、何かどうしても生きたいと思わせるきっかけさえあれば。


「……もしかしたら」


 その時、ルークの脳裏に一つの考えが浮かんだ。それは限りなく低い可能性だが、ゼロという訳ではない。このままここに残っていても、自分はミウに何も与えてやる事は出来やしない。なら、例え無駄足になろうとも試してみるしかない。


「すまない。少しだけ外に出てくる。ミウ、すぐに必ず戻ってくるからな!」

「な、ルーク!」


 ミョルク達が止める間もなく、ルークは診療所の外に飛び出した。

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