去月
3月は去ったりしない。私の方が、心の準備もできぬままに3月から飛び出していくのである。無謀にも。
「行ってらっしゃい。連絡してよね」
「うん。遊びに来るときは連絡してこいよ」
そう言って兄はあっさりと家を出て行った。電車に乗って2時間の都会へ行った。
兄は、優しい人で、勉強ができて、球技はからきしだったが走るが速い人だった。大好きだった。私が小学生の頃、3つ離れた兄は私の下校を桜の木の下でよく待っていた。私もよく、その桜の下で兄を待っていた。3月末から4月の初めはその桜の下でお菓子を食べたりしてから帰った。
今年は1人だな、と思った。3月は慌ただしく去り、4月には私も新しく高校での生活が始まって、桜を愛でる暇もなく通り過ぎて行った。
夏に一度、兄の家に遊びに行った。兄はよく来たなぁと私を迎え入れて、華やかな街を連れ回してくれて、私の食べたがっていたパフェをご馳走してくれた。兄のバイトの間は部屋で留守番して、晩御飯を作ったらとても喜んだ。
秋と冬はなんだかんだと忙しくて、結局、会いには行けなかったけれど、帰省した兄は私の勉強をよく見てくれたし、遅めのクリスマスプレゼントと言って前に会った時に見かけたパンプスをくれた。今度会いに来るときはそれを履いてきたら、と。箱には綺麗にリボンが結ばれていた。
桜が咲いた。
兄のいる街には、私がいる町より早く桜が咲いた。
私は、クッキーをたくさん焼いて綺麗に詰めて、綺麗な桜を一輪添えて紙袋に入れた。できる限り大人っぽい服を着て、パンプスを履いた。
2時間、電車に乗った。
兄は笑顔でドアを開けた。
「急だったなぁ!」
「びっくりさせようと思ったけど、バイトだったら迷惑かけるなと思って連絡した!」
「賢い賢い」
兄に紙袋を差し出すと、中身を見てわっと笑った。
「妹さん?」
部屋の奥から、綺麗な女の人が出てきた。
「うん。話してた妹」
「はじめまして。お兄さんにはお世話になってます。よく話を聞く……っていうか、住んでた町とか家族とかの話をするときのお兄さん、ほとんど貴女の話だよ。仲いいんだね」
「やめろやめろ」
名乗りながら差し出される桜のような美しい手を、ぎこちなく握り返して名乗ったように思う。
「今日、泊まってくか?母さんにはちゃんと言ってきたんだろうな?」
「え、あ……」
兄とその人はなんだか似た顔でキョトンと私を見ていた。
「あっ、あー……実はさ、今日は友達と遊びに来たの。友達は今お茶してるんだけど、待たせてるからすぐ行くよ」
「そうか、気をつけて帰るんだぞ。また来いよ。ゴールデンウィークには俺もまた帰る」
「うん、分かった。じゃあねぇ!」
まっすぐ電車に乗って、帰った。途中、クッキーがうまいという旨のメッセージが入っていたから、スタンプだけ適当に送って返した。
3月は去ったりしない。私の方が、心の準備もできぬままに3月から飛び出していくのである。無謀にも。そして、自分から飛び出したくせに、寂しい寂しいと大泣きして見せるのである。桜の下で。
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