4:44
眠れない夜だった。
なにが辛いと言うわけではなく、全てが辛かったし、なにが怖いと言うわけではなく、全てが怖かった。
やって来るはずの未来も、味わうはずの苦痛も、しみるほどの喜びも全てが億劫で、少しでも衝撃を和らげるためにやらなければならないことは山のようにあるはずの夜だった。
だというのに、手足は雪でも触ったように冷えてペンを掴んでいるのもままならない。眠気は来ないものの、何かに向き合う気力も同様に手元には存在していなかった。
(もー、やだ)
頭の中でもう何百回と繰り返されたセリフがやはり口から溢れずに喉の奥へと追いやられる。机に突っ伏して隣の本棚を横向きに眺める。
あれはファンタジー、その隣はバディ刑事もの、その隣は王道バトル漫画、その隣は怪談系のミステリ、その隣は恋愛もの、その隣は軍モノ、その隣は宗教画の画集、その隣は……
本で体を切り刻めたら。
1ページにつき少しずつ、この体をすりおろす様に削っていけたら。どこかの誰かが心血を注いで繋いだ言葉たちによってこの体をなくすことができたらどれほど良いだろうか。全ての嫌なことから逃れて、私が一度は食した愛すべきキャラクターやシーンに侵食されてこの世から消えることができたら。
「はぁ」
浅いため息は誰にも届かずに私だけを憂鬱にしてゆく。
人間は思いつくことはなんだって実現できる生き物だ。生きることも死ぬことも、想像できるなら実現できる。
誰からも気づかれず生きることも、誰からも気づかれず死ぬことも、なんだってできてしまう。
またいつもみたいに思考のドツボに嵌った。風邪をひいたみたいに重たい頭を持ち上げる。Tシャツの上にパーカーとウィンドブレーカーを着て、ネックウォーマーをかぶる。そっと家を出て、近くのコンビニまで歩く。
都心まで電車で20分の田舎は、この時間だと大通りの車の量も少ない。墨をぶちまけた空の下には不純物が多い。三つ目のうちの一つを意味もなく光らせ、誰もいない電話ボックスを愛おしげに照らし、なんでも揃う便利な店は誘蛾灯の如く迷子を吸い寄せる。夜に光をもたらした人間はこの世で何番目かに愚かだ。
おでんでも食べたいなと思ったけれど、レジの前の台からはもうその姿が消えていた。暫く忙しくしていた間に季節は確実に移ろったようだ。レンジで温める豚汁と、おにぎり、惣菜パン、オレンジジュースとポテトチップスをカゴに放り込む。
「あたためますか」
「いえ、結構です。一緒に豚まん一つください。袋は全部一緒でいいです」
カウンターの中でボンヤリしていた金髪の同年代らしい男の子が不愛想なまま丁寧に豚まんを包む。彼は何時まで働くんだろう。いつ寝るんだろう。さして気になるわけでもない疑問が耳の奥を通り過ぎてゆくのを感じながら代金を支払う。
「あざしたー」
「……」
会釈して店を出る。すぐに豚まんを袋から取り出してかじる。熱い具を口の中で冷ます。はふはふ。まるで真冬みたいに白くなる息を追いかけて視線を上げたら、向こうの空が白んでいるのが分かった。ちょっと走る。近くの堤防まで袋を振り回しながら行ったら、拓けた視界に朝の帳が見えた。
豚まんを頬張りながら立ち尽くす。向こうの方にランニングしている人と、犬の散歩をしているおじいちゃんが見えた。
淡いピンクに色づく朝だった。まだ春と呼ぶには少し早い。けれど、冬と呼ぶには暖かい。望んでいなくても、来てくれたら嬉しくなってしまうのが朝ってものだ。今夜も落ち込むであろうことは想像に難くないのに、なんとなく今日はいい日になると思い込んでしまえるのが朝焼けってものだ。
無性に泣けた。
豚まんは別に特別好きなわけではない。
パンもご飯も食べる気にはなれない。
オレンジジュースは大きいパックを買ったから重たい。
部屋より随分寒い場所にいるのに、手足はぽかぽかしていた。
無性に泣けた。
「帰って寝よ」
わざわざ声に出したら、自分の声は意外と元気そうだった。
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