虚を綴る

 図書館の中で一番日当たりが良くて、一番静かな個別ブースでノートを広げる。一番新しいページの下に下敷きを差し込んで、細く削った鉛筆を持つ。手が痛くならないようにそっと、丁寧に1文字ずつ書いていく。でも、今日はなんだか進みが遅い。

「何を書いてるんだい」

 一つ空けて隣のブースに座った青年が言う。私は手を止めて、彼の方を向き直った。

「何で話しかけてくるんですか?」

「君が綺麗だったから」

 不機嫌を顔に出して、ノートを閉じる。席を立って本棚の迷路に入ると、律儀に彼もついてくる。

「俺、君の書いた話、読んでみたいな」

「絶対ヤです」

「なんで?」

「恥ずかしいから」

 目に付いた小説をひとつ、ふたつと取っていく。

 ふと、棚の2段目にある本が目に付いた。装丁が綺麗だ。手を伸ばすけど届かない。

「はい」

 彼がニコニコしながらその本に手を伸ばして、私に渡す。

「……どうも……」

 小説コーナーを一周して、元の場所に戻る。彼は私がブースに座るのを見届けると、それじゃあまたあとで!と言って何処かへ行った。

 いつも話しかけてくるけれど、いつから話しかけてくるようになったかは思い出せない。本当に邪魔しないで欲しい時は話しかけてきたことはない。変な人だ。

「続き、書こ」


「……ねぇ」

「っ?!」

 突然肩を叩かれてびくりと振り返る。彼がちょっと困った顔で笑っていた。

「もう閉まっちゃうよ?外も暗いし」

「えっ?」

 外して机の上に置いていた腕時計に目をやる。本当だ。もう20時だ。

 慌てて荷物を片付けて、本を棚に戻した。どうやら私たちが最後の利用者だったようで、私たちが出ると係りの人が入り口の看板を仕舞った。彼が駐輪場のロードバイクの鍵を外しながら私に言う。

「送って行くよ」

「えっ?!いや、いいです」

「ここから一人で駅まで行くの?暗いよ?」

 確かに高台にある図書館から駅までは暗いし人通りも少ない。だからこの季節は、こんな時間まで図書館に残ったこともなかった。

「でも、あなたは自転車じゃないですか」

「押して歩けるよ」

「帰る方向は……」

「駅前のスーパーに用事があるし気にしないで……あっ、えーと、君が住んでるのこの辺?それなら家まで送るけど」

「あっ、いえ、駅に自転車があるので……」

「じゃあ、一緒に行こう」

 彼はにこやかに、しかし有無を言わさず歩き出した。気遣いだろう。甘えて一緒に駅まで行くことにした。

「……いつも、何しに図書館に来てるんですか」

 ちょっとのありがたさと申し訳なさを紛らわせようと話を振ってみる。

「うん?俺?えーとね、大学の課題をやりに来てるんだ」

「課題ですか」

「うん。建築の勉強してて。ここの図書館はこの町に住んでる有名な建築家の寄付で資料が他より揃っているし、製図するための机があるんだ」

「あぁ、1階の奥の……」

「そうそう」

「へぇ……すごいですね」

「君は小説を書いてるんだよね」

「まぁ、そうですね」

「課題?趣味?それとも仕事?」

「仕事なんてそんな。趣味です」

「そうか……どんなジャンルかだけ聞いちゃだめ?」

「……」

「無理にとは言わないよ」

「いろいろ書くけれど、今は恋愛もの、を……」

 恥ずかしい。尻すぼみになる声を、彼が拾う。

「恋愛ものか。素敵だね」

「素敵なんかじゃ、ないです」

「?」

「私、恋なんてしたことないし。恋愛ものじゃなくて、他の小説だって……妄想ばっかりで……リアルなものなんて一つもなくて……それらしい言葉を並べてるだけで」

 わあぁ、やめてやめて。いつも家で一人になった時に考えることなのに。ストップストップ!

「な、なんでもないです」

「俺と一緒だね」

「は……?」

「俺はさ、設計図を引くけど。使う建材を触ったことがないし、家も建てたことがない。この建材の特徴はこうで、これくらいの重さに耐えられてって知識はあるけど、全部妄想さ」

「そう……ですかね」

「虚を建ててるんだ」

 彼は恥ずかしそうに笑った。

「じゃあ、私は、虚を書いてる、かな」

「お互い、実になるといいね」


 それから3日経った日だった。風が冷たくて、陽射しが暖かい日だった。

 今日話しかけてこないな、と思いながら休憩がてらに本棚の間を周り、写真でもみたいなと思ってブースと反対側のエリアに行った。大きな、海の写真集を抱えてブースに戻ったら、私の席の前に彼が立っていた。

 思わず足が止まる。

 彼が私のノートを手に取っていた。読まれてる、そう分かってカッと頬が熱くなった。「なに勝手に読んでるんですか」と怒鳴ろうとして、喉が震えた。


 綺麗だなと思ってしまった。斜めに射し込む日光の下で、彼が虚を手繰る姿を。

 ふと、彼がちょっと微笑んだ。

 実が結んだ。そう思った。彼の中で私の綴った虚が、ただの妄想ではなく、確かに存在するものと結びついた。

「……なに、勝手に読んでるんですか」

「ごめん」

「……どうでした」

「?」

「小説」

「ごめん、俺は文系じゃないし、語彙力もないから、感じたことをうまく言葉にできないんだけど」

「はい」

「すごく……よかった。俺は好きだな」

「そう、ですか」

「お、怒ってないの?」

「怒ろうと思ったけど、怒る気なくなっちゃいました」

「そ、そう?」

「……他のも、読みますか?」

「うん、読む」

 しれっと彼は微笑んだ。

「なんで勝手に読んだんですか?」

「虚を綴る君が綺麗だったから」


 図書館の中で一番日当たりが良くて、一番静かな個別ブースでノートを広げる。一番新しいページの下に下敷きを差し込んで、細く削った鉛筆を持つ。手が痛くならないようにそっと、丁寧に1文字ずつ書いていく。でも、今日はなんだか進みが遅い。

「何を書いてるんだい」

 一つ空けて隣のブースに座った青年が言う。私は手を止めて、彼の方を向き直った。

「虚を綴っているんですよ」

 いつか誰かの中で、実を結ぶように祈りながら。

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