第26話「安堵、そして感謝」

「すいませーん」

 注文を決めたところで、三十前後の小綺麗な女性店員が通りかかった。

 究竟くっきょうの好機と見て、私は軽く挙手して呼び寄せる。先ほどのアラフォー店員は、少し離れた場所で団体客のオーダーをとっている。


「お決まりですか?」

 アラサー店員が、形式的な微笑を浮かべて尋ねる。

 昼間のえくぼスマイルの女性とはタイプが異なるが、小顔で均整のとれた顔立ちは目の保養になり大変よろしい。ルノアールを好む理由の三割は厚手のおしぼりであるが、もう三割に、こうした品のよい女性店員の多さが該当する。

「ブレンドを二つと……ミルクレープとガトーショコラを一つずつお願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 一礼し、アラサー店員が厨房へと戻っていった。

 


「やっぱシメはルノアールだな」

 ガトーショコラにフォークを入れながら、光蟲は愉悦の色を浮かべている。

「やっぱり、コーヒーが美味いよね」

 ルノアールのコーヒーは、他のチェーン店には出せない深みと色気を備えていると思う。

「それに、落ち着く」

 続けて付け足し、冷たくなったおしぼりにもう一度顔をうずめる。コクのあるコーヒーと卓抜した居心地のよさが、残る四割となるだろう。


「心のオアシス、ルノアール」

 光蟲が何かの標語のように発し、思わずぷっと噴き出した。



 十時半。光蟲は時折うとうとしながら、スマートフォンをいじっている。何時から働いていたか知らないが、おそらくは立ちっぱなしでレジ仕事に勤しんでいたのだろうから、無理もないことだ。一方、私は歌舞伎町のルノアールでしっかりと睡眠を摂っていたので、眠気もなく冴えていた。

 

 サービスの温かいお茶を飲みながらジュンク堂で購入した専門書をめくっていると、携帯――光蟲と異なり、まだガラパゴス携帯を使用している――に一通のメールが届いた。

 こんな遅くに連絡してくる知り合いが光蟲以外にいただろうかと考えながら見ると、浅井からだった。ドキッとしながら全文を開く。


『夜分にすみません。池原さん、体調はいかがですか?

 昨日の埼玉大戦は残念でしたが、とても面白く、迫力のある一局でした! あのような打ち方もあるなんて、囲碁は本当に奥が深いものですね。


 今日の試合は、電通大戦は三対二で勝ち、首都大戦は二勝三敗で負けでした。残念ながら降格してしまいましたが、皆さん力を出し切って満足しているご様子でした。


 また、今回は池原さんのご配慮により、級位者の私を使って頂きありがとうございました。大会という普段と異なる緊張感を味わいながら、上手の方とハンデなしで対局する機会は大変貴重で、とても楽しく対局できました。私、首都大の方に勝ちましたよ! もちろんまぐれでしたけど、すごく嬉しくて興奮しました。

 

 皆さん、お大事にとおっしゃっていました。また元気になられましたら、部室でご指導頂ければ幸いです。』


 どのような感情を宿してよいか、すぐには分からなかった。

 メールをもらったことについて単純に嬉々とするのも、あるいは部員たちに申し訳ないと思うのもどこか的外れな気がした。この文面をそのまま鵜呑みにするほど純良じゅんりょうではなく、部員たちの反応が実際は異なるかもしれないということを想像できた。

 私は、でも確かに安堵していた。光蟲やルノアールに身を任せていながらも、目をそむけていた恐怖や寂寥せきりょうやましさが、胸の内でざわついていた。

 推敲を重ねた末に完成したメールであることが、浅井の文面から伝わってくる。ほんの少しだけ落涙らくるいしそうになったところを半笑いでごまかし、最初から読み返す。どこが本心でどこが建て前かなど、それこそどうでもいいことだ。


 たった一局の敗北で精神の制御が出来なくなり試合を投げ出す自分は、碁の技術よりも他に、もっと研鑽しなければならないものがあるのかもしれない。

 しかし、それは言葉にするほど容易ではなく、怠惰で臆病な自分には遠すぎる目標にも感じる。これから先、そうした難題にどう向き合っていけばよいのだろう。


 “ありがとう” と言うべきなのは、浅井ではなく私のほうだ。

 もう遅いので返信は明日にしようと思い、そっと携帯を閉じる。

 

 すっかり眠りこけている光蟲を、そろそろ起こさないと閉店時間になりそうだ。

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