第21話「独りだから気付けたこと」

「すいません」

 メニュウを数分眺めてから、挙手して先ほどの女性店員を呼んだ。

「お決まりでしょうか?」

「ブレンドと、Aモーニングをお願いします」

「はい、かしこまりました。少々お待ちください」

 そう言って女性店員は丁寧に一礼し、厨房へと戻っていった。


 腕時計を見ると、十時を少し過ぎていた。

 部員たちは、そろそろ対局を始めただろうか。開始前、藤山さんや井俣あたりは、私の身勝手な欠席に腹を立てていたかもしれない。井俣と浅井以外は四年生なので、これが最後の大会である。最後に、後味の悪い思いをさせてしまった。しかし、今さら仕方のないことだ。


 初めて一人で訪れたルノアール。店内を見渡してみる。

 日曜日と言えども、まだ朝だからか客は数えるほどしかいなかった。斜め向かいに座る中年男性は競馬新聞を開いており、その隣の老女は、後で読むのであろう文庫本をテーブルの端に置き、品のある仕草でコーヒーを飲んでいる。私の隣の席は空で、その隣に座る年齢不詳の太った男は、少年マガジンを音を立ててめくりながらガトーショコラらしきケーキを口に運んでいる。

 それぞれ思い思いに休日を満喫しており、彼らを眺めていると時間の流れが緩やかになっているような気がした。


「お待たせしました。ブレンドコーヒーとAモーニングです」

 五分ほどで、女性店員が注文したものを運んできた。もちろん、えくぼの見えるスマイル付きだ。

 ごゆっくりどうぞという決まり文句に、あざますと早口で述べながら一揖いちゆうした。


 ルノアールのモーニングは値段別に四種類あり、その中で最も安いのがこのAモーニングだ。

 厚切りのバタートーストとゆで卵、それにコンソメスープというシンプルな内容だが、ドリンク代に六十円プラスしてこれだけ付いてくるのはお得感がある。さっそくトーストから食べ始めると、口の中でジュワっとバターの香りが広がった。


 優雅な朝食を終えて、再度店内を眺める。競馬新聞の中年はいなくなり、代わりに三十代ぐらいのアベックと金髪の若い女性が来店して、それぞれメニュウを見ながら注文を考えている。若い女性の金髪にはどことなく不埒ふらちな香りが漂っているような気がしたが、それもまた歌舞伎町らしいなと思い、ふっと息だけで笑った。


 今日の二戦とも勝たなければ降格。上智はここ数年、二部と三部を行き来しており、部員数の少なさや活動の曖昧さに鑑みると善戦してきたほうだと言えよう。残る相手校は、確か電気通信大学と首都大学東京だった。特に首都大学東京は二部にいたチームなので、永峰さんや井俣でも苦戦を強いられるかもしれない。級位者の浅井は、どこまで粘りを効かせられるだろうか。


 光蟲と一緒に来たときには気付けなかったが、私はこうして独り、静謐せいひつな喫茶店で物思いにふけったり、あるいは先ほどのようにぼんやりと周囲を見渡し、どうでもいい想像をほんの少しばかり働かせるようなことが心地よく感じるらしい。

 そうした思案や想像は、一定まで進むと無心へとシフトするということも、今日ここに来て初めて実感したことだ。控えめなヴォリウムで流れるヒーリングミュージックも、ソファーのように柔らかなタッチの椅子も、ひと通り使い終えてなお効力を持続させている厚手のおしぼりも、どれも私の心に浸透した。

 

 昨日の一局や部員たちのことは、目下もっかのこの幸福と比べればどうでも良いことに思えた。無責任だろうが身勝手だろうが構わない。店を出れば再び現実を味わうことになろうとも、少なくとも今ここで寛いでいる間は、それらは取るに足らないものだ。


 昨晩あまり眠れなかったので、いくらか眠気を覚えた。WALKMANでGARNET CROWを再生させ、ソファーに似た椅子にもたれて眠りに落ちた。

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