「五感による、生きたふれあいを求めて」

 独りでも、生きていける時代なのかもしれません。

 それなりの経済力と生活力があれば、直接的な人とのつながりは、もしかしたら必須のものではないのかもしれません。

 

 今世紀に入ってからのインターネットやSNS等の発達はめざましく、その度合いは当初のわれわれの予想を上回るものだと感じます。それらの多様な媒体を通じて、人はダイレクトに顔を突き合わさずとも人とつながることが可能となり、そしてそのつながりは、時として直接的なそれよりも緊密で濃いものになり得ることも珍しくはなくなりました。

 

 さらには、ここ数年における「人工知能(以下AI)」の進化についても、人と人とのつながりという問題において看過できないでしょう。

『半笑いの情熱』でたびたび取り上げている囲碁についても、二〇十六年三月に行われた「AlphaGo 対 李世イセドル」戦でのAlphaGoの圧勝により、AIが人間を超えたことが世間一般に知れ渡りました。

 コンピューターが生身の人間を軽く凌駕するようになった現代において、人間の存在価値、人間が人間とつながる(関わる)意味というものを、今一度考え直す必要があるのかもしれません。


 この小説は、とある友人の存在なしには誕生し得ないものでした。

 私には、友達、あるいは友人と呼べるような人はそれほど多くはいませんが、光蟲冬茂みつむしふゆしげのモデルとなった男性(以下光蟲とします)は、自分にとって、友人と呼べる数少ない貴重な存在です。

 もしかすると、彼のほうは私のことをそんなふうには思っておらず、時々飲みに行く友達の一人、という程度にしか考えていないかもしれませんが、感じ方は人それぞれなので、それならそれで構わないです。


 私は、自分のことを面白く、ユーモアに富んだ人間だと思っています。

 趣味にしているものも音楽の選び方も好きな芸能人も、ついでにいえば自分の書く文章も、センスが良く魅力的だと感じています。要は、ナルシストです。

 しかし、これまで生きてきて感じるのは、私が自負している面白さや魅力というものは、限られたごく一部の人にしか理解してもらえないということ、また、自分はそれを会話において、他人に上手く伝えるスキルに長けていないということです。

 

 もう少し器量が良ければ、たとえそうしたスキルが今一つでも自然と相手のほうからアプローチしてくれて、私の魅力に気付いてもらえる可能性が広がるのですが、悲しいかな自分にその可能性が低いことは、三十年近くも生きていれば痛いほど実感します。

 それはさておき、自分のことが好きで自分の世界に満足してしまい、他人に対する興味が薄いことも、自らを上手く宣伝できない原因の一つなのかもしれません。


 私は光蟲と飲む時、ほとんど自分の話をしません。

 たまに振られたら答える程度で、おそらく九対一か、時にそれ以上の割合で光蟲が自分の話をしています。

 それは、私が自分のことを他人に伝えるのが苦手なことや、彼を楽しませる話が出来る自信がないということもありますが、それ以上に、私は光蟲の話を聴いていることが好きで、たまらなく楽しいのです。彼の話を聴き、それに対してツッコみ、質問をする。そのプロセスは、私にとって何にも代え難い価値があります。

 基本的に他者への興味が希薄である自分が、これほどまでに面白いと感じ、いつまでも話を聴いていたいと感じさせられた人間は、光蟲以外にいませんでした。だから私は彼といる時、必要以上に自身の話をする必要がないのです。


 そんな光蟲の魅力をより多くの人に知ってもらいたい、また、彼の面白さを自分の中だけで収めておくのは実にもったいない、と考えて着手したのがこの『半笑いの情熱』という小説です。

 本来であれば、もう少し光蟲について深く掘り下げて書くつもりだったのですが、結局は自分をモデルとした池原悦弥の話になってしまい、光蟲の出番は当初の構想と比べて少なくなってしまいました。まあ、それはそれで良いのかなと。

 光蟲のエピソードについてはまだまだ数え切れないほど用意してあるのですが、今回はわりと控え目に出しています。今後の続編に向けて、温存しているわけですね。


 私は、直接言葉で自分の気持ちを伝えたり、相手が心地よく感じるようなやり取りがスマートにできる人間ではないと自覚していますが、しかし幸運なことに文章を書く能力は人並みか、あるいはそれ以上に有していましたので、小説というスタイルはそんな私にはうってつけのものでした。

 遠慮も忖度も必要なく、ナルシストであっても自由に思いをぶつけて表現することができる文章という形式は、私の中に潜在する多様な欲求を満たすためにこの上なく有効なものだったと思います。


 囲碁の世界でも、人間よりも優れたAIに意見を求め、形勢の推移を具体的な数値で確認することがスタンダードな手法となりつつある現代、効率性の追求という観点からすれば、おそらく人とのつながりは今後いっそう縮小し、希薄になっていくでしょう。

 しかし、どんなに情報端末が発達し、人工知能が進化を遂げたとしても、それにより人間の持つ本質的な価値が消失することはありません。なぜなら、私たち人間には、AIにはない豊かな「感情」があるからです。そして、その「感情」を持つ人間が主体となって生きるこの世界において、人間が人間とふれあい、関わる意味がなくなるということはあり得ない。私はそう信じます。特に、SNS等が主流となる今だからこそ、直接的なふれあいというものを大切にしていきたいと切に感じます。


『半笑いの情熱』の「半笑い」は表情です。表情は、ネットを通じては知り得ません。

 この小説には、五感を通じた描写が数多く出てきます。

 光蟲の得意な半笑いや、浅井の微妙な表情の変化を読みとる視覚。部室のドアを開けずとも、井俣の石音だと判別する聴覚。嗅覚により、狭い囲碁部の部室に広がったおにぎりや弁当の匂いを感じ、味覚によってルノアールのブレンドやしんみち通りのラーメン屋の味噌ラーメンを堪能し、宮内との抱擁――すなわち触覚――により、荒れ果てた教室にいながら桃源郷の中にいるように感じる等々。

 

 この小説を読んで、生身の人間同士の素直なふれあいや感情の変化を味わっていただき、読者の皆様が人とのつながりや関わりの意味を考えるきっかけとして多少とも貢献できれば、作者としてはこれ以上の喜びはありません。




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る