第90話「一掬の涙」

 暴れ始めて、どのくらいの時間が経っただろうか。

 優に一時間は経過したと思われる疲労が心身に立ち込める。

 

 これだけの音を立てていれば下まで響いているに違いなく、何事かと飛んでくる人間がいそうなものだが、一・二年生は確か合同の課外授業で外出しており、三年生は運動場で体育の授業をしているので、下の階にも生徒はいないようだ。一階の職員室には校長や教頭など、授業を持っていない教員が誰かしらいるはずだが、ここの教員はやる気のない人間が多く、時々外から覗くと堂々とデスクやソファーで居眠りしていることも珍しくはない。


 暴れ疲れて脱力し、私は床にくずおれた。そして、再び涙をこぼす。

 もともとの机と椅子の整然とした並びは見る影もなく、生徒たちのランドセルや私物があちこちに散らばり、黒板は椅子やモップを叩きつけてひびが入り、また、床には赤や白や黄のチョークがぶちまけられ、まるで大災害に遭ったかのような凄絶な様相を呈していた。その荒れ果てた教室の真ん中で、私は静かに、しかし激しく泣いていた。壁掛け時計の秒を刻む音が、やたらと耳に浸透する。



「池原くん!」



 聞き覚えのある声が、秒針をかき消す。

 ゆっくりと振り向くと、眼前には宮内の姿があった。私を見ると、机や椅子をかき分けながら、すぐさまこちらに走り来る。


「私、やっぱり池原くんのこと気になって、ドッジボール抜け出してきたの。今行かないと、本当に取り返しのつかないことになってしまう気がして」


 宮内の顔を、こんなに近くで見るのは初めてだった。

 もとより、小顔で楚々とした見目であると感じてはいたが、その温容からは想像しがたいほどに情熱的な瞳を持っていることを、私は少しも知らなかった。ぴかぴかに磨いたはまぐりの碁石のように黒い瞳孔と、琥珀こはくのように透き通る虹彩に、私は意識を吸い寄せられた。そんな彼女の眼からは、今にも涙が溢れてきそうに見えた。


「ごめんなさい」

 宮内が、泣きそうな声でつぶやく。


「私も、首藤先生のすることは間違っていると思ってたし、そんな先生を慕うみんなのこともおかしいと思ってた。理不尽にいじめられている、池原くんの力になりたいと思った。挫けず、独りきりで立ち向かう池原くんの姿が勇ましく見えた」

 普段おとなしく口数の少ない宮内が、本や文学のこと以外でこれほど熱く語るなんて、少しも想像していなかった。


「力になりたかったけど、私は臆病だから、そんな勇気を持てなかったの。池原くんをかばうことで、先生やクラスメイトたちにいじめられてしまうかもしれない、居場所を失ってしまうかもしれないと考えたら、怖くて手も口も動かせなかった。私は池原くんみたいに強くないから、池原くんの立場だったら、もう学校に来られなくなってたと思う。それでも、間違っているとわかってたのに、助けないといけないって思ってたのに、ここまでずっと見て見ぬ振りをして、池原くんを苦しめてしまった」

 なんと返せばよいかわからずただ傾聴している私に、宮内はせきを切ったように胸中のおりを吐露する。


「学芸会の時もね、上村くんたちが勝手に段取り変えていたの。クラス全員知ってた。私も知ってたけど、やっぱり言えなかった」

 宮内の声に、涙の色が付随する。


「いくら心で違うと思ってても、でも私も、みんなと一緒になって、池原くんをいじめていたのと同じだよね。怖くても、逃げずに、立ち向かわないといけなかったよね。池原くんと、二人だけで、他に味方がいなくても、堂々と闘いたかった。一緒に、闘いたかった」

 純真な両眼から、ついに雫がぽろぽろと流れ落ちる。

 

「私が臆病で、卑怯だったから、池原くんが、こんなに苦しくなるまで、ほっといてしまって、私」

 哀咽あいえつらしながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


「ごめんなさい、力になれなくて。いじめてしまって、本当に、ごめんなさい」

 そう言うと、宮内は私に抱きついて号泣した。荒れ果てた室内に、彼女の声が響き渡る。


 そんなに泣いたら、せっかくの美人が台無しだよ。などと気の利いた冗談を口にできる余裕はなかった。私もつい先ほどまで、彼女のように泣いていたのだ。

 

 何も語らず、そっと宮内の背を抱いた。

 女子としてはやや大きめな汗ばんだ背中も、長い黒髪から漂うシャンプーの芳香も、胸のあたりに染み込む涙も、どれも私の心に浸透した。首藤やクラスメイトの仕打ちにより生き地獄に迷い込んでいた私には、刺激の強すぎる幸福だったかもしれない。


 私たちが今いる場所は荒廃した教室に違いないが、確かに私たちはこの瞬間、桃源郷のような至福の空間にいた。できることなら、このままこうしてなくなってしまいたいと思った。

 

 宮内が泣きやんでも、しばらく私たちはそのまま別世界にいた。

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