第78話「アウトオブ眼中」

「全部ないとか」

 ベートーヴェンが去ってから、本日はケーキもパフェも摂取できないという現実を受容してつぶやく。

「何でもっと多く仕入れておかないのかね」

 光蟲も、合点がいかない様子だった。

「ないって言われたときに、店出るって話せば良かったかなぁ」

「いやあ、出て良かったと思うよ。だって、入るときに聞かされてなかったわけだからね」


 妥協と決裂の分水嶺ぶんすいれいを逸したなと、自身の判断力と決断力の乏しさを実感していた最中、先の女性店員がブレンドとアイスティーを運んできた。

 せっかくそれなりに整った顔立ちなのだから、もう少し活気のある表情をすれば映えるだろうにと、甚だどうでもいいことに思いをめぐらせる。


「あぁミスった、タバコ買ってくるの忘れたー。買ってこようかな」

「いいんじゃない、ケーキひとつ食えないんだからそれぐらいしたって」

「まあいいや、外寒いしめんどいし」

 半笑いを浮かべ、光蟲は諦めてブレンドを啜る。

 ケーキにありつけなかった悔しさを払拭するがごとく、私は大きめのピッチャーに入ったミルクとガムシロップ――それぞれ、明らかに一人分ならざる量が入っている――の中身を遠慮なく投入する。光蟲は、コーヒーはブラックのままで味わうのを好むため、ミルクの残量を気にする必要はなかった。



「いやー、マジ酷すぎるってそれは」

 いつからか、何度目かの昔話にシフトしていた。

「あれはホント驚いたわぁ。本番でよくやるよ」

 アイスティーは案の定壮絶な甘さを呈していたが、スイーツ不在の現状はこのくらいでちょうどよい。

「先生とクラスメイト全員がグルになって騙してたってことでしょ? そんなことあり得るの?」

 いつもの半笑いもなく、光蟲は真剣な顔をしている。

「未だに信じがたいけど、そういうことになるんだよねぇ。なんでも、もともとは上村が首藤に提案したらしく、そしたら首藤が、それは名案だと賛成したってわけ。生意気なアイツを一杯食わせてやろう、ってさ」

 上村は三・四年次も同じクラスで、特別に親しくはなかったものの不仲というわけでもなく、まさかそこまで自分のことを嫌っているとは思わなかった。


「前にも似たようなこと言った気がするけど、自分と悦弥君との知的レベルの差をどう足掻あがいても埋められないものだから、妬ましかったんだろうね。加えて、苦手なプールの授業で大目に見てもらったりしてたから、余計に気に食わなかったと」

「なるほどねー、当時はまるで考えなかったなぁ。そもそも人間的な面白さが皆無なやつだったから、眼中になさすぎたわ」

 そのような魅力を感じなくとも、学力的に上位の生徒であれば多少の意識を向けることはあったが、中の中程度の成績で、かつ強者のご機嫌取りに徹することしかアイデンティティのない彼には、残念ながら私の興味をそそる要素が何ひとつとしてなかった。


「しかし、有馬君とかよくそんな芝居できたよね。だって、初日は通常の行程でやったわけでしょ。混同して自爆してもおかしくないよね」

「そうそう、そこは不思議なところだよね。あの男にあんな器用な真似ができるとは思ってなかったからさ」

 有馬も私のことをそれほどまでに嫌っていたのか、あるいはただ首藤に好かれたかったのかわからないが、どちらにしても普段の授業ではどう足掻いてもこなせないレベルのミッションを成し遂げたのだから、さぞ本望なことだろう。


「俺だったら、もう学校行かなくなってただろうなぁ。そんな悲惨な思いするために行きたくないし、行く必要もないだろうし」

「だよねぇ。何のためにあんなクソみたいな環境に毎日足を運んでいたのか、我ながら不思議なものですわ」

 甘すぎるアイスティーを飲み干し、余計に喉が渇いた気がして水を一気飲みする。

「まあでも、逃げずに向き合った悦弥君はすごいと思うよ。冗談抜きで」

 光蟲が、冷めたコーヒーを飲み干してじっくりとした口調で言った。


 正面の壁掛け時計は十一時ちょうどを示しており、いつの間にか他の客たちがいた席はみな空になっている。


「すいません、閉店です」

 ベートーヴェンが、どんよりとした表情で退店を促しに来た。

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